ASIAN KUNG-FU GENERATION「転がる岩、君に朝が降る」に見る創作物と時代の在り方

「出来れば世界を僕は塗り変えたい 戦争をなくすような大逸れたことじゃない だけどちょっと それもあるよな」
“転がる岩、君に朝が降る”の歌い出しのフレーズである。冷たい冬の朝を連想させるような、美しいギターのイントロ。その直後にこの言葉は綴られる。そして、こう続く。
「俳優や映画スターには成れない それどころか 君の前でさえも上手に笑えない そんな僕に術はないよな 嗚呼…」
 とても切実で、どこか照れているようなこの言葉に、私は親しみを感じずにはいられない。薄暗い方向へ突き進む時代のイメージが脳に刷り込まれ、朝方のニュースを見て「これじゃいけないよな。何かを変えなきゃな」と思う。しかし現実には、身近な「君」という存在の前ですら上手く振る舞えない無力な自分がいる。凄く懐かしい感覚というか、少年期独特のやるせないモノが歌詞の中に充満している。
 この曲で表現されているのは、そんな何気ない無力感や、純真性の喪失であると個人的な感想を持った。切ないくらいのリアリティだ。そして、「凍てつく地面を転がるように走り出した」という最後の歌詞には、現実と向き合って、それでも生きようといった、前向きな覚悟が表れている。それはきっとリスナーへのメッセージなのだろう。まるで、2000年代の閉じた意識から、一歩外へ連れて行ってくれるような優しい曲である。
 思えば2000年代というのは、想像もつかないような大きなスケールの激変が勃発していた。「事件」「危機」、これらの単語が何度新聞の一面に掲載されただろうか。海の向こうで起きる悲劇と、その余波によって生じる近くの惨状。個人ではどうすることも出来ない圧倒的な現実は、あまりにも大きな影響を及ぼした。無力感と絶望が、無意識の内に人々の胸へ突き刺さる。
 その結果、まだ社会へ出ていない学生や子供たちでさえ夢を抱けない、そんな時代になってしまった。社会は、隙あらば若者たちの持つ純真性を奪おうとするのである。そうした風潮の中、日本のサブカルチャー界隈で生まれた創作の新たなジャンルが「セカイ系」だ。
 君と僕と世界を具体性無く繋いだものだとか、男の子の自意識内の葛藤を描いたものだとか……「セカイ系」とはこんな風な曖昧な定義の言葉である。調べるとやたら多くの説明が出てくるが、その共通点としては“閉鎖的”であることが挙げられる。
 言うまでもないことであるが、創作物は時代を反映する側面がある。同時に、創作物は鑑賞者への救済の装置として作動することも多い。「セカイ系」はある意味で、暗さに溢れた2000年代を象徴するものであろう。残酷な様相を呈する外の世界、そこから遮断された自意識の閉鎖空間に、若者たちは希望や夢を見出そうとしていたのである。言い方を変えるならば、自らの純真性を奪おうとする世界から、自意識を守る盾が「セカイ系」だったのだ。
 そんな「セカイ系」が完全に定着しようとしていた2008年、ASIAN KUNG-FU GENERATION、通称アジカンは“転がる岩、君に朝が降る”を発表する。その内容は、「セカイ系」のように君と僕を登場人物としていながら、決して閉鎖していない。喪失感に苛まれながらも、現実と向き合っているものであった。その姿勢はまるで、「塞ぎ込んでないで、前に進もうよ」と語りかけてくるようである。
 時代を映し、救いの装置となるのが創作物である。そして、新しい時代を指し示すのも創作物による表現だ。アジカンが「セカイ系」で凝り固まった場所に、新たな一歩をうながしたように。
 現代は、何かを言えばすぐさま批判が飛んでくるような世知辛い時代だ。それでも、新たなヴィジョンをもって歌う(これは音楽に限らず広義な意味で)べきである。「世界」を変えるなんておおげさなことではなく、誰かにとっての「セカイ」から抜け出す、大切な一歩目を応援することが、表現には出来るはずだ。それは明確にデータとして数値化されるものではない。しかし、どんな時代だろうが、どんな状況だろうが、それは、胸ポケットの下、皮膚の奥に隠れて存在する不定形の「何か」を突き動かしてきた。
転がる岩、英語にすればロックンロールといったところだろう。岩は、現代という凍てつく地面を転がっていく。夜の時代には、優しく差し込む朝日のような創作物が必要だ。


この作品は、第1回音楽文 ONGAKU-BUN大賞で最優秀賞を受賞した岩出拓也さん(20歳)による作品です。


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