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    マカロニえんぴつと「紫」 - 『八月の陽炎』から考える

    紫色。赤色と青色を混ぜた色。光の波長が最も短い色。ブドウの色。ラベンダーの色。
    アメジストの色。十人の言葉を同時に聞き分けたとか言われている人が制定した冠位十二階。その中で一番高貴な色。
    そして、「茹だるような影」の色らしい。
    「絶望に向き合い、そして同時に希望を見つける」バンド―――マカロニえんぴつから言わせると。

    頭では分かっていたのに何もできなかった、課題が山積みの土曜日。そんな日の夕方五時のチャイムのような、どことない淋しさが、最新シングル『八月の陽炎』からは漂っている。
    この曲の中には「茹だるような紫の影」というフレーズが何度か登場する。
    影に紫という色をあてる。
    なんとなく「らしい」といってしまったらそれまでなのだが、やはり影は黒ではないのか。そんな疑問を抱いたのが私だけではないと思いたい。

    それでは、「紫の影」とはどういうことなのか。
    そしてマカロニえんぴつにとって「紫」とは何なんだろう。
    私なりに考えていきたい。

    マカロニえんぴつと「紫」と聞いてある曲を思い浮かべる人は多いのではないだろうか。
    いやマカロッカーならあの曲を思い浮かべないわけがない。
    そう、『ブルーベリー・ナイツ』だ。
    憂鬱な夜をうたったこの曲は、ブルーベリーという「紫色」の果物を用いて描かれている。

    思えば彼らの音楽の舞台は、夜であることが多い。

    「分かりきった事だけを 確かめる夜が堪らなく好きだ」―――『girl my friend』
    「この恋が この恋が この夜が」―――『洗濯機と君とラヂオ』
    「夜を越えるための唄が死なないように」―――『ヤングアダルト』
    「お願い、二人ぼっちの夜をどうか離さないで」―――『二人ぼっちの夜』
    「妄想千回、尚シミュレイション九回 会えない夜はない」―――『ノンシュガー』
    「listen to the radio 夜を縫い合わして きつく結んで、僕らのために」―――『listen to the radio』

    彼らの曲は再生ボタンを押したその瞬間から音が鳴りやむそのときまで、様々な顔を見せてくれる。だから彼らの曲を一言で言いあらわすのは不可能に感じる。
    しかし、あえてこの曲たちを言い表そうとするなら、マカロニえんぴつにとっての「夜」を考えるなら、それはきっとこのように言えるはずだ。

    どうしようもない淋しさの故に、だれかとつながっていたい時間。それが「夜」だと。
    いつ明けるかもわからない不安の故に、だれかとともに乗り越えたい時間。それが「夜」なのだと。


    覚めないで 夢なら
    忘れたいの 本当なら
    行かないで 棄てないで
    もう縋ったって遅いかな

    この『ブルーベリー・ナイツ』の歌詞はまさしく「夜」を象徴している。
    つまり、彼らにとっての「夜」は「ブルーベリーの色」―――「紫色」なのではないだろうか。
    東の空から太陽が昇る時間帯。夜が明けるその時間帯。
    その朝日と夜空が混じる色を「紫」としているのかもしれない。

    しかし、だ。
    私たちが「夜」と言われて想像するのは、「黒色」が空を染める時間であることが多いはずだ。時計の針の音がやけに大きく聞こえるような深夜であることが多いはずだ。
    マカロニえんぴつの「黒色」は「紫色」である。
    だから、黒い「影」の色は「紫色」なのではないか。そんな風に思った。



    しかしそれだけではない。
    2nd full album『hope』。メジャー1st E.P.『愛を知らずに魔法は使えない』。
    この二枚の作品のジャケットは赤と青を中心として描かれている。
    前者は、黒子を赤く染めた人と青に染めた人によって。
    後者は、初回限定盤を赤、通常盤を青にすることによって。

    赤と青は何を表しているのか。
    女性と男性。動と静。暖かさと冷たさ。晴れと雨。挙げていくときりがないが、
    マカロニえんぴつにおける「赤と青」は「希望と絶望」だと思う。

    今一度『hope』のジャケットを見返すと赤の人と青の人は今にもキスをしそうだ。
    これは確かに女性と男性が繋がろうとするまさにその瞬間なのかもしれない。
    しかし、希望と絶望が混じりあっていくことを示しているとも考えられないだろうか。
    例えば、陰と陽の混合を示す太陰太極図のように。死と再生を意味するウロボロスのように。

    ギターボーカルのはっとりさんは
    「絶望を歌うということは、裏側にある希望を引っ張り出すということで、絶望に向き合うということは希望を見出すこととイコールなんだなと」と語る。(ROCKIN‘ON JAPAN 2020年5月号より)

    つまり、絶望と希望は表裏一体であって、混じり合っているものであるということ。
    完全な陰も完全な陽もないように、100%の絶望も100%の希望もないということ。
    この姿勢は彼らの楽曲のいたるところに現れ、「絶望と希望」の混じり合いはまさしくマカロニえんぴつの音楽そのものであるといっても過言ではない。


    「ハロー、絶望」と気楽に絶望を受け入れようとする『ヤングアダルト』。

    「僕が僕を愛せる強さを かなり愛してもいいか?」となかなか簡単ではない人生で、自分を信じて、ただ息をすることの、毎日を歩んでいくことの素晴らしさを歌う『生きるをする』。

    「交わしあった約束も 守れないと知ってしまって
    それでも進んでゆく青春を 抱きしめて走るぜ」と全く同じ時には戻れないという空しさを抱え、それでもきっと何度だって過ごすことができる青春への希望を歌う『はしりがき』。

    「つまらない、くだらない退屈だけを愛し抜け」と間違いを重ねてしまう青春を、まるごと肯定してくれる『青春と一瞬』。

    このような数々の楽曲は絶望の中でもがき続ける私たちに、小さな、小さな希望を与えてくれるものであるのは間違いない。
    そしてそれはまさに、歴史上でもまれにみるパンデミックの絶望の中、必死に未来へと歩んでいこうとする私たちに今、必要なものである。
    自分のことで精いっぱいの今、誰かを思いやる愛を与えてくれる音楽である。

    マカロニえんぴつにとっての「紫」。
    夜の色。絶望と希望が混じった色。なにより彼らの音楽そのものの色。
    その「色」は、画用紙に広がる絵の具みたいに、私たちの人生を色づけてくれるだろう。


    この作品は、「音楽文」の2021年7月・月間賞で最優秀賞を受賞した埼玉県・羽春さん(18歳)による作品です。


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