スピッツの音楽に見る根暗な恋愛論 - 恋愛は私を自由にしてくれるもの

「若者の恋愛離れ」――なんて言葉をメディアで見かける時代。
「特定の恋人の存在は束縛になるし、面倒くさい。独り身のほうが自由で良い。」とか、「特定恋人はいらない。適度に付き合える異性が何人かいて、その人たちと時々会ってデートする関係でちょうど良い」とか。
私からすると信じられない。そんな浅い関係なら無い方がマシだ。って思う。

中には「いつか結婚したいとは思うけど恋愛はしたくない」なんて驚くべき言葉を口にする人もいる。
どっちかというと逆で、入籍とか結婚とかは形はどうだっていいから、一生恋愛していたいと思っている私からするととても信じられない。
恋愛が面倒だなんて思ったことないから、面倒っていう発想自体、信じられない。

あと、「男なんかどうせ裏切るから、信じられるのは男なんかより友達だ!恋愛は一瞬、友情は一生」みたいなよくある言葉。
恋人に裏切られたことなんて無いけど、友達には何度も裏切られてきた私にとって、その逆がほとんど言われているのを聞いたことがないのがとても不思議だった。そんなにみんな、自分のこと裏切るような人かどうかも見極めずに簡単に付き合っちゃったりできるの?と。

簡略化しすぎかもしれないけど、いわば「恋愛=不自由」みたいな感じに言われているのをよく聞く。

私は、いつも思う。それはたぶん、“仲間が多くて明るくて元気なイケイケ”の人たちの話なんだ、と。偏見かもしれないけれど、私はそう思っている。
だってそうじゃないと、心のよりどころとなるかけがえのない1人の存在が、絶対に必要だし、無いと生きていけない。

唐突だが、ここで私が愛してやまないロックバンド、スピッツの話にうつる。
メロディーの美しさとか、歌声とか、演奏のこととか、そういうのを語り始めると、言葉ではうまく言い表せなくてもどかしい思いをすることになるから、やめておこう。
今回は、その歌詞に注目したい。

世間的に知られている代表曲のほか、じつは200曲以上もあるスピッツ。
どの曲にも共通しているのは弱い者、少数派の人間の味方でいてくれるところだ。と、私は思っている。
「スピッツは何でもありの、でも弱い者いじめだけはなしのロックです!」あるライブでのMCでこう言っていた。

あるラジオ番組に登場した際に草野マサムネは、
「勢いで作られた曲は、楽しいときは楽しめるからそれで良いんだけれど、本当に弱っている時には聴いていられない。でも丁寧に作られた音楽は心が弱っている時にでも聴ける。自分らはそういう弱ってるときにでも聴ける音楽を作っていきたい。」そんな旨のことを語っていたのが印象的だった。
実際彼らの曲にはその思いが反映されているのがよく分かるから、とても説得力があった。

スピッツの曲に出てくる主役はだいたい、いわゆる"イケイケ"グループの明るくて元気な人たちとは対照的な、地味で冴えない根暗くんなのである。
彼の歌詞を借りれば≪不細工なモグラ≫(クリスピー)と言ったところか。

わかりやすいテンプレ的なのを言えば、友達が少なくていつも1人黙々と座っているようなタイプ。

周りの人、特に、明るいイケてるグループのひとたち(こういうグループに所属している人間は我々からすると凶暴で怖い・・・)からは「暗い」とか「何を考えているか分からない」とか「ミステリアスで近寄りがたい」みたいな、マイナスの印象をもたれがちで、誤解されやすい。

明るい人たちが率直に喜怒哀楽を露わにするのに対して、ハッキリと感情を示すことをしない(できない)からだろう。

でも、だいたいそういう奴というのは非常に繊細で、人一倍感情が豊かだったりもする。

些細なことで幸せを感じ、些細なことで深く傷つき夜も眠れないくらい落ち込む。
多くを語らないだけでじつは色々なことを考えたり感じたりしている。
見かけのおとなしさとは裏腹に、頭ん中にはすごい野望や夢を隠し持っていたり、とんでもない空想なんかを繰り広げていたりもする。

ちなみに私は、そういう人を見たらだいたい分かってしまうから親近感を持つ。
考えや思いを発散できずに中にたくさん溜め込んでいて、鬱屈とした雰囲気が内面から染み出ているから、無意識に、自分と同じ匂いを感じてしまう。

なにも好きでそうなりたくてなっているわけではない。
もっと自由に感情表現して、考え込むこともあまりなく言いたいこと言って、明るいだけの性格になれたらどんなに楽だっただろうって思う。

じゃあなんで抱え込んで暗くなってしまうんだろう。

たぶん理由はいろいろとあるんだろうけど、そのひとつに「他者と分かり合えない」「こんな変な自分のことなんて、どうせ理解してもらえない、受け入れてもらえない」という問題がある気がする。

感性、感受性がたぶん、どっちかというと少数派で、たとえばみんながワイワイ盛り上がって手放しで楽しんでいることに対して「それはちょっとおかしいんじゃないのかな」とか思ってしまったり、
みんなが馬鹿にしたり嫌っているものに対して底知れない魅力をみい出してしまったりして、簡単に「そうだよね、わかる~!」とは言えないのだ。なんとなくみんなと会話がかみ合わないのだ。

そして、どうせ誰とも分かり合えないからと、口にはほとんど出さないが、1人で多くのことを考え込む。
疑問、難問、空想、妄想は、大好物だ。
でも、だからといって、1人でいることが本当に好きなのか、心の底から孤独を愛しているのか、
そんなことはない。

心から信頼し合える、かけがえのない誰かを探し求めて生きている。
本当は、強く願っている。この思いを誰かと共有したい、この気持ちを分かってもらいたい……。

そしてこの思いが叶わないと、信じられないほどの孤独を味わうこととなる。
暗闇の中に1人ぽつんと取り残されているような寂しさとか、砂漠の中をあてもなくさまよっているような不安に苛まれることとなる。

そして、次第に、こんなふうに思うようになる。
「こんなに生きづらいのは、僕がおかしいのだろうか。僕が間違っているのだろうか。」
「周囲とのギャップを感じてしまうのは、私に問題があるからかもしれない。」
「わたしは普通じゃないのかな。でも、普通、ってなんなんだろう・・・?」

自分自身、というものについて悩み始める。

周りと、社会と、うまく折り合いをつけてやっていくために、自分自身というものを曲げて無理して生きていくしかないのか、
でもそう簡単にできるわけでもなく……そうなってしまうともう袋小路で、なかなか抜け出せない。

いつか、本当に信頼し合える人と出会えて、2人で幸せになれたらいいのになあ。
そんな淡い憧れや夢なんかを描く。

そして、そんな悩みの時代にいた自分を、暗闇の中から救い出してくれるものこそが、恋愛であり、恋人の存在なのである。

この人であれば、「自分自身」というものについて悩んでいたよりももっと前の、ありのままの心をさらけ出せる。
自分の好きな自分でいられる。
この人と一緒なら何も怖くない、なんだって乗り越えられるんじゃないかってほど、生きる力をもらう。
恋が原動力になる。恋人が心の支えになる。

孤独で生きづらさを抱えながら生きている人間にとって、恋愛というのは、そういうものなのではないかと私は思っている。友達は少ないし、気の合う人もほとんどいないし、ほとんどの人間は信じられないけど、恋人のことだけは信頼できる。

それはもはや単なる恋ではない。
生きることそのものなのだ。
恋愛至上主義者と言ってしまってもいいかもしれない。

……というものが、スピッツの恋愛ソングに多く見られる形なのだ。
それまで下を向いて歩いていたけれど、このために生まれてきたんだと思えるほどの恋に救われ生かされる、という、
再生のストーリー。

私が特にそれを感じる歌詞を以下に引用する。

≪どん底から見上げた 青い空とか 砂漠で味わった 甘い水とか 欲しがって/
誰も信じちゃいないのに 誰かを探してた 君のような≫
≪今芽吹いたばっかの種 はじめて見たグリーンだ 憧れに届きそうなんだ≫
≪みんなが大好きなもの 好きになれなかった 可哀想かい?でも悩みの時代を経て 久しぶりの自由だ≫
≪「構わないで」って言いながら 誰かを探してた 君のような≫
(グリーン)

≪歩き出せない暗い夜に 前触れなくぶつかった きっと運命とか 超えるほど ありえない 確率で 見つけ合えたよ≫(つぐみ)

≪砂漠の花の 思い出は今も 僕の背中をなでる 生きていく力をくれたよ≫
≪君と出会えなかったら モノクロの世界の中 迷いもがいてたんだろう 「あたり前」にとらわれて≫
≪考えてやるんじゃなくて 自然にまかせていける≫(砂漠の花)

≪柔らかな心を持った はじめて君と出会った≫
≪憧れだけ引きずって でたらめに道歩いた 君の名前探し求めていた たどり着いて 分かち合う物は 何も無いけど 恋のよろこびにあふれてる≫(フェイクファー)

≪君の心の中に棲むムカデにかみつかれた日 ひからびかけていた僕の明日が見えた気がした≫(流れ星)

≪どうもありがとう ミス・マーメイド 甘い日々を カラカラだった魂に水かけて 不死身のパワーを僕に注ぎ込んだ≫
≪生まれた意味をみつけたよ ひとつだけ≫(マーメイド)

≪一人空しく ビスケットのしけってる日々を経て出会った君が 初めての 心さらけ出せる 素敵な恋人≫
≪珍しい宝石が拾えないなら 二人のかけらで 間に合わせてしまえ≫(ハチミツ)

≪いつも笑われてる さえない毎日 でもあの娘だけは 光の粒をちょっとわけてくれた≫(あじさい通り)

≪それは恋のはじまり そして闇の終り≫(恋のはじまり)

≪君みたいな良い匂いの人に 生まれてはじめて出会って≫(恋する凡人)

≪君と巡り合って もう一度サナギになった 嘘と本当の狭間で消えかけた僕が≫(遥か)

≪彼女は人間の声で 僕の名前を呼んだんで 汚れまくったフィルターも全交換されたようだ≫(Na・de・Na・deボーイ)

≪「届くはずない」とか つぶやいても また 予想外の時を探してる≫
≪どうか正夢 君と会えたら≫
≪ずっと まともじゃないって わかってる≫(正夢)

このように、数々の楽曲にそうした「まともじゃない」人、孤独を感じやすい人特有の恋愛観のようなものが、根底に流れていると私は感じている。

スピッツの楽曲には、生命の終わりである死、死への大きな恐怖と不安、永遠なんてありえない、必ず終わりがあるのだという現実……そういったものへの深い眼差しが随所に散りばめられている。

でも、だからといって虚無的になったり、なげやりになったりするんでもなく、ただただひたすら悲しいだけでもなくって、それを克服、超越するような愛とか一筋の光が、そこには必ずある。

それが生きる希望になっていて、それによって生命の息吹を吹き込まれているといっても過言ではない。

そして、そんな人と出会って、≪隠し切れない トゲトゲで お互いに傷つけ≫(つぐみ)合いながらも、≪誰も触われない ニ人だけの国≫(ロビンソン)をゆっくりと築いていきたい
……そんな恋愛観に、孤独を抱えやすいわたしは、いくら共感してもしきれない。

スピッツとの出会いがなければ今の私はないと思う。
その理由はたくさんあるけれど、草野マサムネの歌詞を見ていると、こんな自分自身とでも根っこの部分で通じるものがすごくあると思う。そして救いをもらうのだ。

「自分と似ている」なんて言ってしまうのはおこがましいし畏れ多いのだけど。でも、だからこんなにスピッツを好きになったのかなぁ。そう思う。

過去、草野マサムネはこんな言葉を残している。

「自分でつくった詩について説明するのはカッコ悪いことなんだけど、ひとつだけ言ってしまおう。スピッツの曲の中でよく『ぼくら』って出てくるけど、この『ぼくら』を『仲間たち』みたいにとってる人もいるかもしれんけど、ハッキリ言ってちがいます。これは『ぼくら2人』『君と僕』の意味です。なんでイチイチこんなこと言うのかというと僕自身がチームの友情とかがキライだからです。単にそういう輪に入れてもらえなかった人のヒガミなんですけどね。自分以外で信頼できる人間は”君ひとり”しかいないのです。」

あまり大きな声では言えないが、基本的に女友達とのつながりというものに対し不信感を抱いている。

だから、友達というと親友がほんの少しいるだけ。ほかに友達は、いない。

生まれながらにしてそういう性格だったわけではない。

何年もの間、小さな出来事がいくつも積み重なって、何度も信じよう信じようと思ってきたけど分かり合えなくて傷ついて、そういうことを繰り返していくうちに、自分でも抗うことができず醸成されていった諦めと絶望感。

こればっかりはそういう経験をしてしまったのだから仕方ない。

たぶん、社交辞令やお世辞も苦手だし、深く考えすぎるところがあるのであまり集団生活向きな性格ではなくて、人のうわさ話や当たり障りのない浅い恋愛や美容のおしゃべりをしてワイワイ過ごす女の子グループが肌に合わなかったというのもあると思う。

友人関係でそれほどいやな思いをせずにここまで来た幸運な人たちは、友達のことも心から信じられるのだと思うし、それはとても素敵なことだと思う。素直にうらやましい。でももう私には難しいのだ。

心を許すことのできる友人、自分が心に抱える暗さを安心して共有できる友人がいない私にとって、
唯一安らぎを与えてくれる人、心をさらけ出し、自分の好きな自分でそばにいられるただ一人の人。
そんな人の存在は、私にとって、普通の人には分からないくらい切実に、大切な存在なのだ。

そういうわけだから、お察しの通り、私は恋人に依存している。だから一度好きになったら嫌いになることはない。

私が好きになる人は、だいたい私と性格の似ている人だから、たぶん相手にとっての私もそんな存在なのだ。
互いに互いが精神的なよりどころ、というのが一番しっくりくるだろうか。

スピッツの歌詞を借りていうならば「恋に依存した迷い子」(歌ウサギ)なのだ。

そんなわたしたちの恋愛の形はしばしば、批判の対象になる。
まあ、批判というと大げさなのだけど、よくない印象をもたれることがある。

「他者(相手)に依存することは良くないこと」、「精神的に自立してこそ大人の恋愛ができる」「恋愛にかまけると、やるべきことがおろそかになる」
そんなふうに一般的にはよく言われている。もちろん、それも一理あると思うけど。

いろんな作品に描かれている、友情よりも恋を優先する奴はひどく、恋人よりも友情や仲間意識を重んじるほうが美徳だという風潮とか。「恋は一瞬、友情一生」とかいう、言い出したやつはどんだけ恋人と長続きしなかったんだよと言ってやりたくなるフレーズ。

流行りの音楽をきいてみても、
「男にふられました、最後にいきつくのはやっぱり友達だ、励ましあえる最高の仲間!」みたいな歌詞。いくどとなく耳にしたが、私にはなんとなく違和感があって、ちょっと苦痛だったんだ。

なんだよそれ・・・・・・と思いつつ、でもそういう世の中の風潮、みたいな大きな荒波に飲み込まれそうで、やっぱりおかしいのは私のほうなの?同性の友達ができなくて、恋人1に依存している私が変なの?
そして、それだけ信頼している恋人がいるから、ますます、彼氏ほしいだの、男紹介してだの、彼氏の愚痴大会だのをして笑っている女の子たちと話が合うわけがないからますます孤立して、ますます友達はできないし。

・・・なんて、自分自身について悩んできた。どうせこんな悩みを女子たちに話したって、「恋人自慢?」と、うっとうしがられて終わるだけだから誰にも言ったことはない。

そんなとき、わたしの恋愛を肯定してくれる音楽が、スピッツだったのだ。

スピッツの歌詞では、ステレオタイプではない恋愛の在り方がしっかりと肯定されているような気がする。認めてくれているような気がする。
そこには冒頭に書いたような「恋愛≒不自由」という概念は存在しない。

むしろそれは逆であり、恋愛、かけがえのない恋人の存在は、縛られていた自分をありのままにさらけ出させてくれるもの、解き放たってくれるもの。

いわば自分を自由にしてくれるものになり得るのだ。

だから初めてマサムネさんの言葉を読んだとき、「私だ・・・」と思ったし、草野さんが言うんだもん、これで良いよねと、一気に気持ちが楽になったんだ。

私は今日もスピッツの曲を聴いている。

下を向いて立ち止まっていた私を暗闇の中から救い出してくれたあの人との出会いに感謝しながら。

そして、あの人とのそんな関係性を分かってくれているような気がする、彼らの音楽にも感謝しながら……。


この作品は、「音楽文」の2018年3月・月間賞で最優秀賞を受賞した東京都・つぐみさん(23歳)による作品です。


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