ふたつの光、正しさとあの日 - 米津玄師と菅田将暉が形作った「私」

正しい時に鳴る音楽がある。
それと同じように、正しい時に差し出される言葉も。
全員に当てはまるものではなく、人ひとりそれぞれ、自分自身であるために好ましいといえる瞬間が「正しい時」だ。

一日を生きていると、しばしばその「正しい時」とはいつなのかが分からなくなる。時間以上に、主体となる自分の存在が不確かだからだ。通りを歩く人、すれ違う人たちの声や匂い、人肌にあたためられた空気のまじりあいの中で、私は一体どんな人間として見られているのだろうか、それはこの世界に適しているのだろうか、と不安になる。自分の姿を見られず、常に主観で生きているからこそ、外に向かっている表面も、内に向いている感情もどう見られているのか分からないから、人はみんな平等に不安だ。

仮にとてつもなく安心出来る正しさを自分の中に見つけ出したとしても、得た安心感や正しさそれ自体を言葉にして表現することは難しい。言葉は口の開いたふくろのようなものであり、吸っては吐きを繰り返し無限に膨らむ表現方法だからだ。

私も、その時に体験したことを「適切な言葉」を使っては語れないと思う。
ただその一瞬だけ、現実から遠く離れた優しい場所に、あらゆる攻撃の及ばないところに、私はいたような気がした。「正しい時」にその音楽は鳴ったのだ。

ある日、外出から帰り最寄駅を出て、いつも通り駐輪場に向かっていた。誰かと不用意に視線がぶつからないよう、下を向いて歩くのがくせになっていた。音に敏感でクラクションなどの大きな音を間近で聞くと身体がこわばってしまう体質のため、音楽は聴いていなくともイヤフォンを耳にさしている事が多かった。外界の衝撃から守るために見つけ出した自分なりの方法だった。
天気は薄く晴れていたと思う。風も心地よく、気持ち良かった。二重、三重もの殻を重ねないと外を歩けない私には、道端に咲いている雑草の花や建物の斜めに刺した光が癒しだった。昔は人に臆病な自分が嫌いで、今もまだ全てを許し、好きになれているわけじゃないけれど、それでも少し前よりかは「それなりの生き方」が分かりかけてきている気がした。

ずっと、私の知らない「正しさ」であろうとしていた。
基準も分からないのに、心をすり減らすほど模索していた。言葉ひとつ発するのもおそれ、呼吸も浅くなっていた。誰かが他人を指差して人間性や所属を非難しているのを見ることがストレスで、自分がその標的になりたくないと思いながらも、大勢に加わって鳩の群れのように都会を歩き、行動するのが嫌だった。アンビバレンスな心をどうにも出来なくて、たまに堰を切ったように泣いた。
私だけが「正しい」といえる、薄らいだ光を放つ尊い瞬間を見逃していた。

そんな時。
ふと、目の前を横切るプリズムが、私の方を向いてすぐに上昇していった。見上げて追いかけると、後追いでもうひとつ。反射してきらめき、私の視線を絡め取った小さな悪戯心は、そのまま、ぱちんと弾けて突然いなくなった。
横を向く。見慣れた公園に何人かの子どもたち。彼らはシャボン玉を吹いて遊んでいた。近くには母親らしき女性もいる。話をしながら、見守っている。

今だ。
私は衝動的に思い、イヤフォンをつなげた携帯の、プレイリストから『まちがいさがし』を選び、曲をかけた。
まろやかな声が、言葉を歌い出す。

「まちがいさがしの間違いの方に 生まれてきたような気でいたけど
まちがいさがしの正解の方じゃ きっと出会えなかったと思う」

今見ている景色は、私がこんな風にイヤフォンをさして、翳った表情(かお)をして歩き、シャボン玉というささいなものに出会い、心を動かされていなければ出会えなかった光景だ。
まちがいさがしの、正解の方に私がいたなら出会えなかった景色。

それを導いてくれたこの曲。これを、「正しさ」と言いたくなった。
正解でも誤りでもない、あるいは誰かにとってこの瞬間、相応しくない。
けれど私にとっては何よりも手に取りたい、抱きしめて胸に融けさせたいと思える「正しさ」。

米津玄師の紡ぐ言葉は心の奥底から無理にひっかきだすのではなく、正しい時を選んで自ら光を見に表面からにじみ出てきたのを、彼が摘み取って歌にしているのだ、という気がする。だからこそ、時と場所と状況、自分がその瞬間、どんな形をしているかで楽曲の醸し出す匂いは変わる。
『まちがいさがし』を初めて聴いた時、清廉な雪の匂いがしていた。けれど今は、陽なたに当たった古い毛布の匂いがする。私がずっと身近に感じ、好きだと思っていたものの匂いがしていた。
菅田将暉の声が、懐かしく響いている。不思議な声だ。ずっと昔、家の近くで毎日聞いていた少し年上の男の子の声に聞こえてくる。
何も邪魔しない、邪魔させない、この曲を歌う、たったひとつの「正しい」歌声のような気持ちになった。


彼ら二人は、私にとっていつも「正しくあれない姿」で光を見つける方法を教えてくれる存在だった。「正しい姿でいない」のではなく「あれない」人に向けて歌った曲。いつもプレイリストに入っていたし、今日はうまく型に嵌れないな、と思った時にはどんな時だって聴いていた。
電車の窓から大きな川と、沈む夕陽が見えた時。一人で都会の賑やかな夜を歩いていた時。世界と歌と声が寸分も違わず一致して、私を形作ってくれたことは何度もある。

けれどこの、シャボン玉が揺れる駅の真横、電車が通り過ぎる時に吹く暖かな風の中で目をつむり聴いた『まちがいさがし』以上に、私を「正しくはあれない、けれど絶対的に、ずっとこれからもこうでありたいしゃんとした姿」でいさせてくれた曲はないと思っている。

「淡い靄の中で
君じゃなきゃいけないと
ただ強く思うだけ」

これからも私はきっと、正しさを見紛い、失い、また探し出すだろう。
夜の暗さに手首を締め付けられているような辛さも思い出してしまうだろう。
だけど、彼らはまた私を選んでくれる。その言葉が、声が、お互いに選びとられたものであるゆえに、私という存在もまた、薄もやの中から手を伸ばし、選んでくれる。

「正しさ」をそっと、差し出してくれる。
ひとりの人間として、私はそれをずっと大切にしていきたい。
間違いの方でも、信じられる場所はどこまでも広がっている。間違いだからこそ、行ける場所がある。

そこはきっと薄い青空で、風に委ねて浮かぶものにきっと、また心動かされるのだろう。


この作品は、「音楽文」の2020年4月・月間賞で最優秀賞を受賞した千葉県・安藤エヌさん(27歳)による作品です。


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