考えるな、感じろ。ブルース・リーは言った。
映画『燃えよドラゴン』の、有名すぎる台詞。原語のニュアンスなら、思考するな、感覚でつかめ。みたいな感じだろうか。
しかしその言葉に逆らい、つい考えてしまう。音楽はいったい何で出来ているのか。
解釈にもよるけれど音階と呼ばれるものは7つしかなくて、なのにその中にある無限の揺らぎを人間が捕まえ、いわば操作すると、その響きは音楽になる。人類はそれなりの年月を歩んできているのに、今でもまだ「新しい」と言われる音楽が作られている。本当に不思議で、めちゃくちゃ胸が躍る。
僕がいちばん初めに触れたKing Gnuは『Vinyl』だった。
聴いたときの喜びといったらなかった。毒気のある映像もさることながら、うねるリズムとキャッチーなメロディに心を奪われてしまい、続けて10回くらいMVを再生した。なんだこれは。すごく好きだ。それ以外の思考をすべて放棄して、心身が震えるのを感じていた。
新しく知るアーティストの音楽で自分がそんな風に反応したことも、嬉しかった。その後、予想どおり彼らはすごい勢いで注目されていき、渦のようなその行進に僕も引き込まれていった。
音楽に説明は不要。そう思いつつ、既に彼らの音楽はあらゆる場所で言葉を尽くして語られていることも知っている。そりゃそうだ。好きなものや、新しいことについて、僕らはどうしたってしゃべりたくなるのだ。人間は音楽と、そして言葉も与えられた生き物だから。
MVやデザインに垣間見えるこだわりで、若くゴリゴリに尖っていそうに思えるけれど、King Gnuは実はとても間口が広い。同時に、反骨のエネルギーに溢れてもいる。
年齢を知って少し驚いたくらいには、彼らの音楽は一曲ごとのバランスがとても完成されている。けれども、洗練が過ぎて“殺菌“された感じや、独りよがりで気持ち良くなっている雰囲気はない。アレンジを少し変えるだけで歌謡曲やフォークすれすれになりそうな気もするのに、奇をてらったようなチープさはなく、いっそ感心してしまう。
最初に『Vinyl』の詞に目を通したとき、平易なワードをあえて選んで書いているんじゃ? と直感的に思ったのだが、インタビューを読んでみて実際そうらしいとわかり、僕は更に好感を持った。世代やノリを限定しない言葉づかいで、それぞれの単語の意味はスッと入ってくるのに、その並べ方や旋律との組み合わせ方が詩的だし、そのうえ刻みも胸がすくように絶妙(『Vinyl』なら、二度目のAメロ冒頭なんか最高)。
誰の道筋も真似していない、という意味で新しい。でも、いつかの興奮を思い起こさせる懐かしさもある。確かに、これはポップだ。
同調者を募る、という意味でつけられたらしいメジャー1作目のアルバムタイトル『Sympa』。
賛同者とか共鳴者とも訳されるSympathizerは、バンド名の由来、ヌーの習性のように群れをだんだんデカくするというイメージとも直結する。そう考えると、さまざまな服装や表情、肌の色の人間たちが描かれたジャケットだって示唆的だ。
インタールードの『Sympa Ⅰ』~『Ⅳ』でシリアスな世界観を感じさせつつ、『Flash!!!』『Sorrows』は生っぽいサウンドではないのに疾走する息づかいが聞こえそうだし、叙情的な音とロマンチックなボーカルが完璧な『It’s a small world』、サビのハモリとベースラインを聴くたび踊ってしまう『Bedtown』、聴いた印象よりも直球な歌詞を読み胸を打たれた『Hitman』『The hole』など、やっぱり今回もものすごいバランス感覚で成り立っている。
前作『Tokyo Rendez-Vous』は美しいメロディと絶妙なサウンドの波に翻弄されて、1作ごとに作風の異なる監督の映画を1本続けて観たような心地になったけれど、今回はまたがらりと違う感覚を与えてくれる。
彼らの描写するトーキョーは、まんま僕らの住むトーキョーだ、という手触りがある。
昔から住む者と、移住してきた者の、憧れと諦めの混じりあい。雲行きの怪しい未来、現実味のわかないオリンピックの話題、セレブごっこの空虚、ごったがえす雑踏、刹那的な遊びの煌めき。都会から隔絶されたかのような小さな公園。誰も見ていない空の色。
前作1曲目『Tokyo Rendez-Vous』では≪眠れないこの街の/無意味な空騒ぎにはうんざりさ≫なんて言いながらも、King Gnuは世界を絶対に「自分たち」と「それ以外」、内と外に分けたりしない。
土地の名前以上の意味を持つ“トーキョー”が、たくさんの名もなき人間が住むひと続きの場所であることを分かっていて、同じ地面の上に立ち、そこから遥か向こうにある希望を見上げようとする。
その場所に存在しているのは曖昧模糊な社会ではなく、確かに呼吸し、人生を送っている「誰か」だ。
『Sympa』はそんなことを強く感じるアルバムだった。
“トーキョー”に生きている者として、僕は彼らの描く匂い立つような生の気配に親しいシンパシーを抱いている。
フランケンシュタイン博士の造った怪物のごとく、テクノロジーが僕らを追い立てる窮屈な街で、密度に反しできる限り距離を保とうとする人々。自分と、自分の腕に入る相手を守ることだけで誰もが精いっぱいの時代に、King Gnuは厭世感に寄りすぎず、世界をひとつの物語のようにyouとmeの関係に集約してくれる。
≪俺たちにはビルの向こうの星空が見えてる≫(『Bedtown』)、そう言われたら思わず窓の外を覗きこみ、目を凝らしたくなる。≪避けようのない痛みを/二人分け合えるよ≫(『Sorrows』)、≪この風に身を委ねて踊ればいい≫(『Don't Stop the Clocks』)、そう言われたら、なんだか少し安心してしまう。
常田大希の詞は、“群れ”を引き連れるリーダーの言葉でもあり、電車でいつの間にか隣に立っていそうな、サグいけれどシャイな男の姿そのものでもある。
言葉はいらない、考えるな、感じろ。そう念じて、夕暮れも遠退いた薄闇の中でイヤホンをつけると、すべての音と融合しひとつの楽器として鳴っているボーカルが、やがて声として浮き上がってくる。
しきりに≪君≫と呼ばれているのが自分自身のことに思えてくる。井口理と常田が歌うmeとyouは、いつしかKing Gnuと自分になっていく。
視界に映る東京の風景は彼らの音楽で充満していく。僕を取り囲むトーキョーという街全体が、劇場みたいにKing Gnuを響かせる。
なかなかロマンチックな体験でしょ。とはいえ、彼らは甘美な諦めを許さない。今夜は目を開き、この世界を見ろと語りかけてくる。
この眠れる国の、眠らない街トーキョーに、King Gnuは生まれるべくして生まれたのだ。
King Gnuの“声”を聴いたとしても、きっとそれに共鳴するには至らないこともあるだろう。鳴ったり鳴らなかったり、人によって反応は色々だ。けれどエネルギーの刺激を感じると、物質は勝手に振動する。思考によらずに震わされたそのわずかな振動は、周囲と反応し合い、だんだんと増幅していく。そして、それが新しい音楽になっていく。それこそ、群れのように。
『Sympa Ⅰ』からアルバム全体を通して、助けを求めている「誰か」。
その輪郭は、ラストにして突然、明確になる。ストリングスの合間に聴こえるくぐもった声とモールス信号は、どこか遠く離れた場所で起こっていることのようだった。なのに、そのうちサイレンとエンジン音が近づいてくる。明瞭になったその音は、ちょうど自分の目の前までやってきて、まさにそこで止まるのだ。
後で読んだインタビューで、「最後の曲で救助が来る、そういうストーリー」と常田が発言していて、確信を得た僕はその場にうずくまりそうになった。
助けを求め、救助されようとしていた誰かは、僕だったのだ。
トーキョーという劇場の中にいて、自分もまた当事者だったと気づかせる。なんて鮮烈な締めくくりなのだろう。
思考せず、感覚だけでこの時代を生きられたとしたら、楽だっただろうか。
残念なことに、いや喜ばしいことに、人間は考え、歌い、しゃべる。あまつさえ、誰かと誰かのコーラスの音色で、わけも分からず泣いたりもする。音楽に揺さぶられて、暮らすことそのものに疲れて嫌気がさしている街を、もう一度見回してみようとさえ思ってしまう。
King Gnuに共振できる喜びを、僕は噛み締めている。
≪ロックンローラーは愛と人生しか歌えない≫(『Slumberland』)と宣言する彼らと行進し、一緒に愛と人生を歌いたいと思う。このトーキョーという場所で。
この作品は、「音楽文」の2019年2月・月間賞で入賞した東京都・矢野レゴさん(32歳)による作品です。
“トーキョー”の当事者 - King Gnu『Sympa』に共振する
2019.02.11 18:00