ロックスターだって、僕だって - THE BLUE HEARTS、Mr.Children、BUMP OF CHICKENの歌詞から

「つらいのは君だけじゃない」音楽を聴いていて、そんななぐさめの言葉に出会ったことがあるだろう。人々を絶望の底から救い出し、励ますための決まり文句である。

「苦しいのはみんな同じ」「誰しも悩んでいる」表現は違えど脈々と受け継がれてきた、つらさの普遍性。手を替え品を替え伝えられてきた、共感というテーマ。悲観的な気持ちにとらわれ、不安に覆われ、孤独の仮面でまわりの見えなくなった人々に、「つらいのは君だけじゃない」的なメッセージはやさしく寄り添う。家族や友人、あるいは知らない誰かも、同じように悲しみに暮れているという事実を教える。

しかし事実はあくまでも事実でしかない。疲れた心身の特効薬にはならない。

「つらいのは君だけじゃない」……だからどうした。私がつらいのは変わらないじゃないか。直面している問題は何ひとつ解決しない。誰もが現実に苦しみ、ふがいなさを嘆き、それでも前へ進もうとするから、何だっていうんだ。私の抱える痛みは私だけのものだ。病院へ行く患者がそれぞれの病気を持つように、他人の痛みと私の痛みは違う。

固有性をないがしろにして、「つらいのは君だけじゃない」と平気で語りかけることは、ある意味では無責任でもある。

実際のところ、救われる人々はいる。「つらいのは君だけじゃない」というクリシェを至言としてありがたがり、涙を流して「じゃあ頑張ろう」と思う人々は多く存在する。簡単に立ち直るきっかけをもらえる幸せな生き方を、否定することはできない。

きっとその人々にとっては何でもよかったのだろう。いつもより贅沢な食事、恋人とのデート、隣町を散歩すること、あらゆる場面にきっかけは転がっていて、たまたま「つらいのは君だけじゃない」のような、たとえば音楽と出会った。通勤中のラジオで耳にした。YouTubeの関連動画をクリックした。「つらいときに聴く音楽のまとめ」を検索した。昔買ったCDをなんとなく聴いた。そして歌われる言葉に心震わせた。気を取り直して生きていこう。

その程度で消える悩みは、悩みではない。ただのゆがみである。生活を送るうえで避けがたいちょっとした違和感である。寝返りを打てばまた眠り続けることができる。本当の苦しみとは、消し去る方法がわからず、かといって見て見ぬふりをすることもできず、みずからの圧力で背中がゆるやかに壊死するのを待っているような、差し迫った状況で生まれる。そんな場面において、「つらいのは君だけじゃない」「苦しいのはみんな同じ」「誰しも悩んでいる」のようにひどく抽象化された言葉は、役立たずのまま宙に浮かぶだけである。

では無意味なのか。人々を救うために、同じく苦しむ誰かの存在を知らせる試みは、無謀にすぎないのか。

そんなことはない。小説や映画は、限りない言葉を尽くして、人々のさびしさを埋めようとしている。物語の力を借りて何度も呼びかけている。「つらいのは君だけじゃない」の提示を軸とする作品は数えきれないほど生み出されてきた。安っぽい共感の押し売りに終わらない作品は、歴史上、たくさん作られている。

ここには理由がある。小説や映画はある程度の尺を持っていて、複数の要素を取り入れることができるから。伝えたいことをそのまま伝えるやり方に陥らず、人物や風景に託し、重層的な描写を徹底するから。それらによって、悩める個人の独自な感情に訴えかけるから。必ずしも売り上げという目的に干渉されず、わかりづらい表現にすることも時には可能だから。小説や映画は、小説や映画にしかできないやり方で、精神の危機にある人々を支える。

一方、音楽は、「つらいのは君だけじゃない」を、そのまま伝える曲にあふれている。直接的に歌うアーティストばかりである。これは仕方がない。小説や映画なら乗り超えられる壁が、ロックやポップスに立ちはだかるから。長くてせいぜい6、7分のフォーマットに、何もかも放り込むわけにはいかない。モチーフをいちいち細かく描写していたらきりがない。世間に広く流通させるためには切り捨てるべきものもある。その過程で失われた思いをまさに必要とする一部の人々が、悩み苦しみ耐えている。因果な現実である。大衆に届けようとしたら、真に救いを欲する聴き手を裏切らなくてはならない。

そんな音楽の良さもある。作り手と聴き手の距離が近いことである。ライブでアーティスト本人を見て、歌の確かな感触を味わうことができる。他の客と同じ空間を過ごし、私だけじゃない、と思うこともあるだろう。ライブに行けなくても、生身の人間が自分の声で歌うこと、作り手が身をもって表現することに、現実味を感じるかもしれない。これは音楽にしかできない伝え方であると言える。
それでもなお抱かれる疑念。「つらいのは君だけじゃない」への失望。受け入れられない救済の構造。結局、アーティスト本人は大勢の前で歌うほどのパワーを持っている。表情は悲しげでも、みんなに受け入れられる魅力があり、負のエネルギーを昇華する技を持ち、なんらかの事情があってもマイクの前に立っている。別世界の出来事だ。「つらいのは君だけじゃない」は、まやかしだ。やはり私のつらさは変わらない。ステージが遠くなっていく。ざわめきが小さくなっていく。離れる心をつなぎとめるものは何もない……。

人は、苦しいときは自分がいちばん苦しいものだと思いがちである。視野が狭くなり、冷静な判断ができない。本当に助けなければならないほど逼迫した精神状態かもしれないし、そもそも精神が逼迫しているかどうかはその人が決めることである。
そこでアーティストは考える。策を練る。「つらいのは君だけじゃない」という周知の事実に説得力を持たせるために、ある言葉を付け加えて歌う。

《僕だって》という言葉である。

すぐれたアーティストは、この《僕だって》によって、歌詞に奥行きを与え、意味を押し広げ、歌に価値をもたらした。差し伸べる手の強さを増した。数々のアーティスト、なかでもこれから取り上げるロックスターが、《僕だって》を通して、本当に人を救うとはどういうことか、考えてきた。
歌詞において、《僕だって》が重要なキーワードとなっている曲を、発表された順に挙げてみたい。

人は誰でも くじけそうになるもの
ああ 僕だって今だって
叫ばなければ やり切れない思いを
ああ 大切に捨てないで

この歌詞を書いた甲本ヒロトは、数少ないカリスマの一人である。真島昌利もそうである。1985年、二人を中心に結成されたTHE BLUE HEARTSは、日本で初めてロック/パンクに、メッセージを与えた。それまでは刹那的かつ、どこか浮世ばなれしていた日本のロック/パンクで、聴き手に言葉を伝えようとした。何かやらかしてやろうという新人らしい野心があった。それは今も消えることはないが、やはりブルーハーツ初期の楽曲には、やむにやまれぬ思いが全身全霊で込められている。

特にこの“人にやさしく”。無駄な箇所はひとつもない。言いたいことはすべて言ってしまったのではないかと思わせるほどの熱量がある。その後のスタンスを決定づける勢いのある曲と、《ガンバレ!》と歌い続ける宣言で、彼らは一躍ヒーローになった。

《気が狂いそう》の歌い出しはあまりにも有名である。誰もが胸に隠し持っていた、インパクトのある叫び。激しい曲調であるにもかかわらず、《やさしい歌が好きで/ああ あなたにも聞かせたい》と続く。《このまま僕は 汗をかいて生きよう/ああ いつまでもこのままさ》で、苦労をいとわない不変の生きざまを歌い、従来の、夢のロックスター像を、より聴き手に近づける。

音楽を鳴らすのも同じ人間である。当たり前だが見過ごされていた事実とともに、聴き手と肩を組み、悩みすら吐露したのが、上に挙げた2番の出だしである。
《人は誰でも くじけそうになるもの》だけで終わっては、普通の言葉であり、先ほど長々と書いたとおり、なぐさめにはなっていない。それどころか突き放している。無関係のアーティストの偽善にすぎない。才能あふれる甲本ヒロトは《ああ 僕だって今だって》と付け足すことで、言葉を、聴き手を、自分のもとに引き寄せた。

《マイクロフォンの中から/ガンバレって言っている》、まさしく今、ステージで歌っている《今だって》、《僕だって》くじけそうなのだと、打ち明けている。《叫ばなければ やり切れない思い》は、あなただけではなく《僕だって》抱えていると、作り手と聴き手のあいだの距離を縮めている。

ブルーハーツの活躍した時代、ステージの上のロックスターは、聴き手のあこがれだった。手足を無茶苦茶に振り回し、満ち満ちた情熱をまき散らしても、特別な存在であることに変わりはなかった。

そこで甲本ヒロトは、《僕だって》くじけそうだと漏らす。こうして歌って叫んで、ライブが終わったら打ち上げで騒いで、馬鹿みたいに楽しんでいるように見えるけれど、実は揺れ動くことだってある。しかもそれは今。はちゃめちゃの今。ロックスターも等身大の虚像であることを決定づけたのは、《僕だって》の一言にほかならない。

“人にやさしく”という曲名からイメージされるとおり、この曲はやさしさについて歌っている。3番には《やさしさだけじゃ 人は愛せないから/ああ なぐさめてあげられない》と、核心を突く歌詞がある。《期待はずれの 言葉を言う時に》も、《心の中では ガンバレって言っている》。やさしい言葉の無力さと傲慢さを、甲本ヒロトはすでに理解していた。

やさしさとは何か。それは《ガンバレ!》と歌うことそのものではなく、《ガンバレって言ってやる》と決意する気持ちであり、《聞こえてほしい あなたにも》という願いなのである。ロックスターの《僕だって》、やさしさを持っていることを、甲本ヒロトは示す。
ここで心に浮かび上がるやっかいな不信感。ブルーハーツは、甲本ヒロトは、ロックスターの新しい役割を考え、自分が担おうとして“人にやさしく”を歌ったのではないか。使命感から選んだ《僕だって》の言葉ではないか、あるいは無理しているのではないか。“人にやさしく”はいい曲である。そのあとの活躍もすばらしい。けれども、才気のほとばしる楽曲を聴いて、感情をむき出しにしたパフォーマンスを目の当たりにして、しょせんはロックスターの演技、演出だと、極端な否定をしてしまう人もいるかもしれない。

そんな怪しい感情を歌ったロックスターもいる。しかもあろうことか、その曲を大ヒットさせてしまった。

あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしている
知らぬ間に築いていた
自分らしさの檻の中で
もがいているなら
僕だってそうなんだ

1996年、“名もなき詩”を発表したとき、Mr.Childrenはすでに人気のバンドだった。恋と人生についての考察を、わかりやすい言葉にして、覚えやすいメロディーとキャッチーなアレンジに乗せて届ける。ほとんどの楽曲の作詞作曲を手がける桜井和寿はまだ20代。音楽性も若い。それがミスチルの印象だった。

楽しいだろう。面白いだろう。桜井和寿の悲しみや怒りは曲によくあらわれているが、商品として世に出せるくらいだから、それだけ客観的に分析し、人に伝わる表現に落ち着かせているはずである。音に変えてしまえるではないか。気取った言葉にして受け取ってもらえるではないか。桜井和寿はそれくらい戦略的にこなせる。指折りの優秀なロックスターなのだから。

何曲もヒットを飛ばし、「現象」にまでなったミスチル。“名もなき詩”は、醸成された勝手なパブリックイメージの上で、踊っているつもりが踊らされている桜井和寿の苦悩を、《僕だって》によって聴き手にも味わわせることに成功した歌である。

一聴したところ、桜井和寿の得意とする恋愛の歌に聞こえる。それは間違いではない。いろんな障害を乗り越えながらも、《darlin》を愛し、共に生きる覚悟を決める歌だと言えるだろう。桜井和寿が冴えているのは、ラブソングに「自分らしく生きること」への問いを含ませているからである。

少し前に「ありのままで」という言葉が流行った。ありのままの姿。ありのままの自分。確かに大切である。しがらみや呪縛から逃れてありのままでいられたら、気楽で最高だろう。もちろん難しい。社会で暮らすには、各種の決まり、他人の視線、マナーや建前などを無視することはできない。自分以外の誰かと過ごし、成長する過程で、自分はこうあるべきという思い込みを育てていく。

生きるとはつまりそういうことなのである。ロックスターもいっしょである。桜井和寿も同じ思いを抱いていたのだろう。事務所を背負って売れていくうちに、世間が期待するミスチルのイメージは増幅する。ミスチルはこうあるべきという考えが作り手にも聴き手にも刷り込まれる。それでも歌うしかないのならば、今の気持ちを聞いてほしい。筆者の想像にすぎないが、“名もなき詩”は明らかな目的を持って歌われている。

1番で《感情さえもリアルに持てなくなりそうだけど》《たまに情緒不安定になるんだろう?》と、さながら「シーソーゲーム」に駆り出されて混乱しているようすを描き、隙を見せたところで、上に書いた歌詞の、ダイナミックなサビに入る。

《あるがままの心》で生きるとはどういうことか。桜井和寿にもわかっていない。わかっていないからこそ追い求める。追い求めても実現できないから、《誰かのせいにして過ごしている》。不自由なことだらけの世の中に翻弄される私たちの姿そのものである。

《知らぬ間に築いていた/自分らしさの檻の中で/もがいている》のは誰か。桜井和寿は《僕だってそうなんだ》と答える。《僕だって》がポイントである。ここは《僕もそうなんだ》ではいけない。《僕だって》という、並列して同じであることを説きつつ、やや強情な、愚痴をこぼすような響きであることが重要なのである。《君だってそうだろう》の意も暗に示されているが、それを真っ向から言ってもいけない。《僕だって》によって気持ちをあらわすには、適切な距離感がある。

最後のサビの歌詞を見ればわかるだろう。《あるがままの心で生きようと願うから/人はまた傷ついてゆく》。悲しき宿命である。「ありのまま」を体現しようとすると、かえって苦しむことになる。《知らぬ間に築いていた/自分らしさの檻の中で/もがいているなら》それはみんな同じだろうか。桜井和寿は真理で締める。《誰だってそう/僕だってそうなんだ》と。

ここで言葉は行き来している。1番の《僕だってそうなんだ》で、桜井和寿は、苦悩にそれとなく一般性を持たせながらも、自分の痛みを投げかけた。聴き手は受け取る。作り手の告白を反芻する。何かが引っかかる。曲が進み、大サビで、《誰だってそう/僕だってそうなんだ》と歌われ、うまく生きられないのは聴き手の自分のことでもあると気づく。私だってそうだよ、と感じる。《僕だって》で渡された作り手の苦悩は、《誰だって》で聴き手の苦悩に変わり、また《僕だって》で回収される。そのときには曲が終わっている。見事な手さばきと言うしかない。

この曲では一度も《君だって》などと歌われていない。そんな強気な断定はなされていない。《この「名もなき詩」を/いつまでも君に捧ぐ》のみである。《僕だって》を駆使し、ロックスターの生きざまを描くことによって、庶民の苛立ちもすくいあげ、深淵なテーマへあざやかに転換してみせた。まぎれもないプロフェッショナルの仕事である。

では、ロックスターだからと言って、《僕だってそうなんだ》と歌う権利はあるのか。場合によってはやはりずうずうしくもなるのではないか。だいたい《僕だって》こそ、「だからどうした」の一言で片づけられるだろう。究極的に言えば、相手は他者なのだから。

ここで、今も若者たちに大人気のバンドが最後の切り札となる。疑心暗鬼のかたまりを崩壊させる歌詞を歌っている。

ええと、うん、大丈夫!
君はまだ 君自身をちゃんと見てあげていないだけ
誰だってそうさ 君一人じゃない
そりゃ僕だってねえ……――まぁ、いいや

アルバムの最後の曲は希望をまとっているべき、という決まりはもちろんない。流れを置き去りにして駆け抜けてもよいし、恨み節で終わるのも許されるだろう。しかし、自由であるはずの音楽を広く届けようとすると、先ほども述べたように、さまざまな手かせ足かせと切り離せなくなる。やはり終わりはすっきりしていたほうが気持ちいい。元気をもらえたらなおよい。

そんなふうに祈るのをやめない聴き手の願いを叶えるバンド、BUMP OF CHICKEN。彼らが2000年に発表したアルバム『THE LIVING DEAD』のラストを飾るのは、“Ending”という短い曲である。

一曲目の“Opening”で《涙の落ちる音》を聴いた作り手が、君に《いくつかの物語をプレゼント》するのが、このアルバムの流れである。曲の形をとった物語が、めくられていくページのように続き、“Ending”で《ほらまたどこかで 涙の落ちる音》と結ばれる。悲しみを完全に消すことはできない。作り手はおのれの無力さを自覚しながらも、せめてもの思いで、物語を捧げる。おとぎ話を残す。

小説や映画に似たやり方と言えるだろう。ほとんどの作詞作曲を担当する藤原基央は、現在までの楽曲において、あらゆる生命の育まれる半径5メートルから宇宙までの空間を、時にはアルバムというひとつの作品で世界観をまとめながら、物語にゆだねて描いてきた。個別の物語を生きる人々は壮大なテーマに集約される。そうして世界の成り立ちをあぶりだす手法はなかなか真似できない。

バンプが一貫して伝えてきたメッセージのひとつが、上の《大丈夫》であり、《君はまだ 君自身をちゃんと見てあげていないだけ》である。さらに《誰だってそうさ 君一人じゃない》である。無条件で勇気づける言葉に根拠を持たせるために、物語の力を借りて、外の世界に目を向けさせる。それによって自分を見つめなおす機会を与え、《誰だってそうさ 君一人じゃない》の一節を証明する。ミスチルの言葉で言えば《自分らしさの檻》に閉じ込められた人を救う。決意と願いをもとにしたささやき、ブルーハーツの考えた本当の意味の《やさしい歌》である。

藤原基央は《僕だって》のもろさを知っていた。あの手この手で語りかけても、《僕だって》というフレーズを出した途端、しらける場合もあることをわかっていた。だから途中でためらった。《そりゃ僕だってねえ……――まぁ、いいや》。《僕だって》がうさんくさくなる気配を察知し、真正面から言いきることに恥ずかしさをおぼえた。疑うことをやめなかったのである。口に出すのは簡単でも実は無責任なのかもしれない、わかりあうのは困難なのかもしれない、と。

望んだことではないかもしれないが、バンプはロックスターである。みんなの前で歌う権利がある。背負う義務もある。より聴き手に近い、一人の生きる人間として隣に立つことはできないものかと考え、物語を歌ってきた。新しいロックスターのあり方を模索した。2枚目のアルバムの段階で《僕だって》に不足を感じながらも、違う形を探し、聴き手を導いてきたのが、バンプの歩みなのである。

ロックやポップスの救いとは何か。特に若者に伝えるべきメッセージは何か。そのひとつが「つらいのは君だけじゃない」である。または「苦しいのはみんな同じ」「誰しも悩んでいる」である。それが他人事にならないように、一部のロックスターは《僕だって》でリアリティを加えてきた。《僕も》ではだめだった。《僕だって》の持つ切迫感、有無を言わせぬ強さ、やるせなさ、投げやりな感覚が響いて、作り手と聴き手の呼吸が一致するのを確かめてきた。

甲本ヒロトはずっと歌っている。ミスチルは精力的な活動を続けている。バンプは新しいファンをこの瞬間も増やしている。《僕だって》でシーンを切り開いたロックスターは今も活躍している。これからも《僕だって》は歌われるだろう。色や形を変え、時代の風に乗り、寄り道をしながら繰り返されるだろう。「つらいのは君だけじゃない」は、たとえ陳腐であっても、胸に刻むべき真実なのだから。


この作品は、「音楽文」の2017年6月・月間賞で最優秀賞を受賞した山下リンさん(23歳)による作品です。


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