また会いましょう - ヒトリエ『REAMP』リリースに寄せて

それはわずか145日の誤差だった。「名前だけは知っていました。」と悔悟の情を抱えずに済んだのは偶然でしかなかった。

初めて聴いた曲は『ワンミーツハー』。サムネイルを見て、刹那クリックすることに決めた。当時MVを作っていたためか、鮮やかで目まぐるしく変わる画面の中が印象的だった。ボカロ漬けの毎日を送り、邦ロックなど聴いたことのない僕だからこそなのだろうか。上下左右から矢継ぎ早に繰り出される、どこか聞き馴染みのある、けれども全く新鮮な音の波に持っていかれるものがあった。

現代の曲はイントロを短く、サビを長く設定されることが多いという。動画文化の浸透に加え、サブスクが市民権を獲得したことで、どんな曲も例外なく「聴いてみてもらえる」時代となった。同時に、イントロでリスナーを掴めなければ、どんな曲も「聴き続けてもらえない」時代なわけである。

そんな潮流に抗うかのように、ヒトリエの曲はイントロが長い。意図されているか否か、一リスナーに分かった話ではないが、それで勝負していることに、若輩者なりに感銘を受けていた。長い時間を割かれることの多いイントロでは激しいリフが耳を引き裂く。曲を通してテンポは速く、描かれるのは孤独で、そしてひたすらに情報量が多い。「ボカロらしさ」と表現される要素である。あえて言うなら、ヒトリエの曲の「ボカロらしさ」に僕は惹かれた。実際、多くのリスナーもこういう経緯をたどっているのではないだろうか。ヒトリエの曲は「ボカロらしさ」と生身のロックの融合だった。「ボカロっぽいですね」というコメントに「ボカロらしさはwowakaさんが作ったものです」というコメントが返されることが定番だったが、これは間違ってはいない。「ボカロらしさ」を構成する要素の多くに影響を与えた人間が作った曲だからである。

4人のバンド生活始動から日が経つにつれ、もはや「ボカロらしさ」は「ヒトリエらしさ」と呼ぶ方がふさわしくなったのではないだろうか。速くて、孤独で、情報量が多い曲が彼らの売りでもあり、それと同時にまさしく魅力そのものだった。新しいアルバムの『HOWLS』にて先行リリースされた『コヨーテエンゴースト』を聴いた時、「『ヒトリエ』だ!」と叫びたくなった。イントロは訳も分からなくなるほどに衝撃的で衝動的で、らしさがそのままあふれ出ていた。

「ボカロらしさ」はBPMや目まぐるしい音、そして休む暇を与えない言葉たちだけに表れていたわけではない。描かれる孤独という題材に共通するものがあった。『ローリンガール』や『アンハッピーリフレイン』に代表される曲にあった、「少女の内面の孤独」というべき感性は、初期のヒトリエにも如実に映し出されていたのである。『アンチテーゼ・ジャンクガール』では「だいきらい」と叫び、『トーキーダンス』ではモノクロの世界で少女が一人踊っていた。あえて言うなら退廃的で悲観的な世界である。そんな孤独からの脱却が作品に顕現していたのも、またヒトリエというバンドだった。

初期のヒトリエはwowakaのやりたいことの具現化だったのが、だんだんとチームの様相を帯びてきた、とインタビュー記事で読んだことがある。フロントマンとして絶対的な立場でありながら、しかしほかにメンバーが3人いるという状況は、彼の中の孤独という大きな溝を少しずつ埋めていったのかもしれない。アルバム『IKI』の発表前後から、ヒトリエの曲は「やさしく」なった。高速四つ打ちと強烈なリフで構成されていた時代の面影は残しつつ、(実際、プレイ難度の著しく高い曲ばかりである。)歌詞を読めば一目瞭然、愛とやさしさがそこには滲んでいた。やさしさがそこにあふれているわけではなく、随所に影が見えているのは間違いない。しかしそれこそが彼のリアルであり、おそらくリスナーのリアルでもある。共感が重視される現代に、ヒトリエは孤独に向き合いながらその先へ進むことを後押ししてくれる。ここで『リトルクライベイビー』という『IKI』を飾る楽曲の歌詞を紹介しよう。

僕の生まれた
その朝に君の声を聞いて
誓ったんだ
君の生まれたこの世界ごと飲み干して
歌を唄い続けること ―ヒトリエ『リトルクライベイビー』/詞:wowaka

ここには、「だいきらい」な要素はない。あるのは僕と君であり、ただそれだけなのである。孤独と隣り合わせでありながら、「君」の存在が暖かさを象徴している。常に曲を聴いているリスナーの一人一人へ焦点を当てている「僕」と「君」だけという表現こそが、彼の作り描いた「愛」なのかもしれない。夜の「一人ぼっち」で冷たい心を、この曲はただ包み込んでくれる。

アルバム『HOWLS』に収録されている『ポラリス』からも「あなた」にまっすぐ込められたメッセージをうかがい知ることができる。最後の曲である『ウィンドミル』を聴き終わったとき、人生で初めてのライブ―STUDIO COASTでのツアーファイナル―への期待がより一層膨らんだことを、はっきりと覚えている。



145日が経った。不幸な禍はステージの真ん中に穴をあけた。僕は白いカーネーションを手向けた。





一年以上もの歳月が経った。不幸な禍は春と夏を容赦なく奪っていき、誰も彼もの心が「孤独」に傾いていた。しかし時計はただひたすら正直にその針を進めている。止まってしまってもおかしくなかった共同体は、再び歩み出した。新曲、そしてアルバムの発表である。



ヒトリエの新曲『YUBIKIRI』が先行配信される日になった。デジタルシングル『curved edge』のリリースから一か月と少しが経っていたわけで、新体制への不安みたいなものは無かった。ドラム担当のゆーまおさんが作曲したとのことで、シノダさんの曲とどの程度テイストが違うのか楽しみではあったが、同時に―誰もが抱えていたであろうが―そこに恐ろしさがなかったわけではない。

0:00。公開の時間。転がっていた白いイヤホンを手にとった。リフに安心感を覚えた。アルバムの10曲目らしいなと思った。やさしいメロディが聞こえた。やさしいギターであり、歌声であり、言葉であった。やさしすぎるほどだった。

0:06。僕は多分、「ちがう」と思っていた。受け入れる準備のできていない要素が幾重にも重なって、おそらく混乱状態にあった。

翌日、心地よいあのイントロが忘れられず、もう一度聞いた。歌詞に向き合おうと思った。聴き終わった時、僕は繰り返し再生のボタンを押しながら、自分自身の感性に違和感を覚えた。初めは「ちがう」と感じていたメロディがすんなりと頭に入ってきた。ただただ正直な歌詞がよくフィットしていると感じた。

はじめてヒトリエを聴いた時のように、またしても僕はイントロに引き込まれた。ヒトリエの強みは変わっていない。あれから「何千、何万回」には達しないだろうが、幾度も幾度も『YUBIKIRI』を聴いた。

そして『REAMP』発売の日となった。もう「ちがう」と思うことはなかった。それでも、『REAMP』に収録されている曲のどれもで、僕は「裏に重ねること」を止められなかった。どんな状況であろうと、あるとき不意に、僕の肩を現実がそっと叩いてしまう。しかし、それすらも肯定してくれたように感じさせてくれる。それは彼らがリスナーの誰以上に現実に向き合っていること、そして、数多の感情を背負っていることが曲のそれぞれに発現しているからだ。三人になったとしても、彼らは一人一人にフォーカスすることをやめていない。間違いなくそこに存在する「変化」から逃げも隠れもしないでいることに、感銘を受けずにはいられなかった。

『REAMP』発表にあたってのインタビュー記事で、「wowakaの模倣はしなかった」と明確に発言がなされていた。しかし、新しい曲の一つ一つに、多くのリスナーは何らかの「ヒトリエらしさ」を覚えたことであろう。きっとそれはwowakaさんの音楽が好きであった人間にも、wowakaさんがヒトリエメンバーにされたのと同様のことがなされたからである。彼がメンバー三人によって変わったように、おそらくリスナーもヒトリエというバンドによって何かが変わった。ヒトリエというバンドが内包するすべてとともに変化していっているからこそ、我々リスナーは新しい曲のすべてにちりばめられた「ヒトリエらしさ」を感じられるのではないだろうか。それは「新しいヒトリエらしさ」とも表現できるかもしれないが、実際にはそうではないはずだ。ずっと変わらない何かと、その上で変わっていった何かが今の「ヒトリエらしさ」につながったように感じられる。

最後に『YUBIKIRI』の中でも最も好きなフレーズを紹介して終わることにしよう。

有限な時間は無限だ ―ヒトリエ『YUBIKIRI』/詞:シノダ

一見すると矛盾した表現である。しかし、ここでの「有限な時間」を「ある一人の人間と過ごした時間」ととらえるとどうだろうか。我々の全員が、彼の残した「非日常」を産み出す要素の一つ一つを体感できる。曲は残り、映像も残り、記憶も無限に残り続けるのだ。三人が過ごした有限な時間は、無限に広がり続けている。彼と指切りで交わした「また会いましょう」という、永遠に破られることのない約束とともに。


この作品は、「音楽文」の2021年4月・月間賞で最優秀賞を受賞した神奈川県・T.Dさん(17歳)による作品です。


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