悲しみの中にある光 - —今、改めて米津玄師『Lemon』のすごさについて考える

 先日、米津玄師の『Lemon』のYouTube再生回数が2億回を突破したというニュースを見た。私はYouTubeの再生回数というものをあまり気にしたことがなかったが、“2億”という数字が明らかに多いことは容易に理解出来た。そのことに対して素直に、すごい!おめでとう!と感じればいいものを、なぜか私は、「なぜこれほど聴かれているのか?」という疑問の方が勝ってしまった。発売から8ヶ月経ってはいるが、もう一度『Lemon』という楽曲について考えてみようと思った。「素人が偉そうなことを言っている」と思う人もいて当然だ。私は、ミュージシャンでも音楽ジャーナリストでもない。でも、だからこそ音楽を受け取る側として感じたこと、考えたことをそのまま書きたいと思う。

~もはやドラマを構成する一部ではない~
 ドラマが放送されていた頃は、『Lemon』はドラマの主題歌としてのイメージが強いと私は感じていた。ドラマの世界観とぴったり合っていて(私もそのドラマを見ていた)、毎回ここぞというタイミングで流れてくるのが心地よかった。音楽と映像がぴたりと重なり合った時、ドラマという一つの作品の価値がぐっと上がることが証明された感じがした。そして、それと同時に『Lemon』という曲自体が持つ輝きがより一層増しているような気もした。
 
 今の時代、私たちが新しい音楽と出会うきっかけとして最も多いのが映画、TVドラマ、CMを見ることだと思っている。「今度実写化するあの映画の主題歌は、今若者に人気のあのバンド!」「○○で有名になった脚本家の新作ドラマの主題歌に起用されたのは、話題のシンガー!」など、いわゆるタイアップというものだ。ある曲が大手企業のCMソングに起用されたり映画の主題歌になったりすることで、話題性が生まれ、多くの人がその曲を知ることとなる。でも多くの場合、ドラマが最終回を迎え、映画の公開が終了すれば、その主題歌となった曲も聴かれることが少なくなるのではないかと思う。なんとなく音楽が映像の付属品として聴かれている気がする(純粋に音楽を楽しもうという人が少ないと言いたいわけではない)が、『Lemon』は違う。もちろんはじめは、ドラマの主題歌として、ドラマを構成する一部として聴かれていたと思う。しかし徐々にドラマから切り離され、いや、というよりむしろそのドラマの主役に匹敵するのではないかと思うくらい存在感を強め、“ドラマ主題歌の『Lemon』”ではなく、“米津玄師の『Lemon』”として、曲自体が持つメロディーの美しさ、共感できる歌詞が直接的に私たちの心に響いているのではないかと感じた。

 このようにドラマや映画の主題歌として世に出され、その後その年を代表する曲にまでなったものとして、RADWIMPSの『前前前世』や星野源の『恋』が真っ先に頭に浮かんだ。これらの曲に共通するのは、映画やドラマのために曲が作られ、それらがヒットすることで曲の知名度が上がり、同時にアーティストの知名度も上がることで、曲そのものが評価される機会が多くなったことだ。そう考えると『Lemon』も、もはやドラマの構成する一部としてではなく、“米津玄師の曲”として聴かれるようになっているのではないかと思った。

…裏を返せば、今の時代は、いわゆるヒット曲と呼ばれるものが生まれるためには、「~の主題歌」「~のCMソング」という“肩書き付き”でないといけないのか?と、考えたりもした。

~メロディーと共鳴する歌詞~
 私は『Lemon』を初めて聴いたとき、鳥肌が立ったのを覚えている。冗談ではなく、ほんとに。「私、この曲一生聴き続けるんだろうな」と直感的に感じた。メロディーも歌詞も、まっすぐ心に突き刺さった。直接的な“死”についての表現がないので、人によって何について悲しいと言っている歌なのかというとらえ方が違うかもしれない。私は、“死”を悲しむ歌だと感じた。

 私が小さい頃、いくつくらいだったかは忘れたが、死ぬってどういうことだろうと、考えていた時があった。死んだらどこにいくんだろう?自分が死んでもまた家族に会えるのかな?その頃はまだ、“死”というものは概念でしかなく、本当に人は死ぬんだろうかと疑問に思っていたくらいだった。それから何年かたって、祖父が亡くなり、“死”というものと対峙することになった。米津自身も『Lemon』の制作中に祖父を亡くし、『音楽を作る上で死を意識してきたつもりではいたが、急に目に見えるものとして表れた時、死生観がゼロに戻った』とインタビューで語っていたが、私もその通りだと思った。ずっと頭の中にあった死という概念が崩れ去り、死を目の前にすることで出てくる感情は悲しいというものだけだった。人の死を経験したことがあるから、私にはこの歌詞がどうしても頭から離れない。

《受け止めきれないものと出会うたび/溢れてやまないのは涙だけ》

《あんなに側にいたのに/まるで嘘みたい》

昨日までそこにいた人と、もう一生話すことも触れることも出来なくなったとき、不思議なことに、その人が生きていた頃の思い出が頭の中をぐるぐると駆け巡っていたのを覚えている。たぶん脳が目の前の状況を必死に理解しようとしていたのかもしれない。この歌詞を見て、まさにあのときの自分だと思った。米津は、一度ゼロに戻った死生観をもう一度構築する前の、死んでしまったことが悲しいという感情のみに突き動かされて歌詞を書いたのだろう。その結果できあがった曲について彼は、『ものすごく個人的な感情を抽出してでき上がった曲で‥‥これで果たして大丈夫なんだろうか』と話していた。それに対して、「大丈夫です、ちゃんと届いています。」と伝えたい。
米津玄師という一人の人間の悲しみが歌詞に込められていることで、私は“悲しみの型”を与えられていると感じた。そして、死に直面したときの、現実として受け入れられず、過去の思い出に逃げるようなもやもやした感情を“悲しみの型”に当てはめることで、ちゃんと悲しむことができた。だから、たとえ個人的な感情を歌にしただけとはいっても、私にとっては『Lemon』はとても意味のある曲になった。そう考えるのは、私だけではないはずだ。
そしてもう一つ。その歌詞を魅せるためのメロディーはひたすらに美しい。歌詞は、悲しみを歌っているのに対して、メロディーは光を歌っているように感じた。もちろん、歌詞にも光という言葉が出てくるが、最も光を感じるのはメロディーだと思った。歌詞とメロディーが共鳴して、「あなたの死は悲しいけど、私はこれからも生きていく」というポジティブな感情を私たちに抱かせている気がした。前にも言ったが、何に対しての悲しさを歌っているのかは人によってとらえ方が違うと思う。でも、どんな人でも感じたことがあるだろう“悲しみ”という感情の中に、“光”を感じさせてくれるから、『Lemon』という曲は多くの人の心に響いているのだろう。

 発売から8ヶ月たった今でも、多くの人に聴かれていることは、やはりすごいことだと思う。確かにドラマの主題歌として作られた曲なので、オファーがなかったら世に出ることはなかったかもしれない。その意味ではドラマのおかげでヒットしたといってもいいだろう。しかし、米津玄師が死を現実のものとして受け止めたことにより、死を目の前にした時の感情が濃縮され、彼の持つ言葉選びのセンスや美しいメロディーを作る技術をそこに加えて還元した結果、米津玄師というアーティストがベストな形で表れた曲になったのだと思う。

そう考えると、世に出るきっかけが何であっても、『Lemon』という曲がヒットすることは必然だったと言えるのではないか。


この作品は、「音楽文」の2018年12月・月間賞で最優秀賞を受賞した山形県・藤崎洋さん(21歳)による作品です。


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