第一印象は「意外」だった。SEKAI NO OWARI「umbrella」は傘を擬人化した歌詞が綴られている。ファンタジーな世界がお得意のセカオワはとっくにいろいろなモノを擬人化して歌っていると錯覚していた。けれど、思い返せば「スノーマジックファンタジー」では雪の妖精だし、「マーメイドラプソディー」では人魚だし、「Error」ではロボットが登場し、それぞれの心情が歌われているものの、明らかに無機質なモノとは少し違う。心情を持たないモノを擬人化したのは今回が初めてと知って、驚いた。
楽曲を聞く前に傘を擬人化した作品ということを知り、傘を差した女の子というポップなCDジャケット(初回限定盤A)のイラストを見る限りではきっと明るくて爽やかな傘のお話なのだろうと勝手に想像してしまっていたけれど、それも違ってさらに驚いた。というより想像以上のクオリティの高さに感動した。ドラマの主題歌になっていることもあり、キャッチーなメロディにストーリー性が高い歌詞が描かれ、とてもドラマチックで、個人的に小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」を思い出した。
《君のためにつばさになる 君を守りつづける やわらかく 君をつつむ あの風になる》
信じた相手のために自己犠牲を厭わない姿勢が「umbrella」の世界に通じる楽曲だと思う。
特に歌詞に関して、「umbrella」はたしかに傘の心情に違いないけれど、自分のこれまでの人生とも重なって、読めば読むほど感情移入してしまった。
傘とは持ち主が見つからない限り、自ら動くことはできないモノ。運んでもらわないと動けない存在。雨が降る度、持ち主の体を濡らさないように、自身だけが雨に打たれるという汚れ役を買って、懸命に持ち主を守る役割を持つためだけに作られた存在。自分の意志では自身のことをどうすることもできない。運命も、天候も、自分の気持ちさえ何ひとつ、ままならない宿命を持って生まれた受け身の存在。
《鏡に映る私は透明だった 分かってた事でも知らないままの方が良かった》
傘は傘でもブランド品の高級な傘などではなく、透明なビニール傘で誰の手にも渡りやすい傘がこの楽曲の主役である。
量産型の傘、どこにでも存在するもの、それを傘自身は自分の姿を見るまで、気付かなかった。ちゃんと持ち主がいて、自分は一生大事にされる世界にひとつだけの特別な存在なんだと思っていたのに、なんてことはないどこにでもあるただのビニール傘だったと気付いて愕然とする。ビニールだから寿命は短い。使い捨てに近く、いつでも代替可能な補充要員のひとりに過ぎなかった。
それって人間でいう自我の目覚めに近い。幼いうちは親など身近な大人に大切に育てられることが多いため、自分は特別な存在なんだと思い込みやすい。生きている世界も狭く、家庭の中だけで過ごせばちやほやされたりして、自分はきっと誰からでも愛される存在なんだと勘違いしてしまう。成長するにつれて、世界が広がり、社会に出ると、他者との差という壁にぶつかる時期がある。それが自我の目覚めの頃であるが、なんだ自分は他の人たちと比べると全然かわいくないし、女だけど、男に間違えられるような容姿でどうしようもないなと自分という存在にがっかりした時期がたしかにあった。
ワンフレーズ目を聞いた時、その時の心境が蘇った。狭い世界にいれば、少しは愛されている実感が持てたのに、広い世界に飛び込むと愛されることなんて一度もなかった。誰からも必要とされないし、むしろ異性からは嫌われるし、自然と自分の立ち位置のようなものを覚えながら、他者から見捨てられないように、社会から落っこちないようにひっそり生きるようになっていた。
いつの間にか私は都合の良い女に成り下がっていた。
《私は君を濡らすこの忌々しい雨から 君を守る為のそれだけの傘》
量産型の傘にだって、ちゃんと役目はあって、雨さえ降っていればちゃんと必要とされる。傘にとっては恵みの雨だけれど、《君》にとっては忌々しい雨だから、自分の立場をわきまえている傘はちゃんと雨を忌々しい存在とみなしている。
私は若い頃、好きな男の人に雨が降った時、例えば他の女の人と会えない時とか、他の女の子じゃ満足できなかった時とか、都合の良い時に会う女を演じていた。何も嫌々演じていたわけでもなく、自分で決めたことだったと思う。好きな相手の一番になれないなら、何番目でもいいから、友達でいいから、何かに利用されるだけでいいから、ただ側に居たかった。必要とされたかった。好きな人に雨が降り続けばいいと思っていた。
《それは自分で決めたようで運命みたいなもの 何も望んではいけない 傷付くのが怖いから》
自分がブスだと自覚した時から、高嶺の花のような相手を好きになっても振り向いてはもらえないと悟って、うっかりそういう相手を好きになってしまっても、自らは何も望まないように心がけていた。自己主張さえしなければ、相手の邪魔さえしなければ、側には置いてもらえたから。近寄るなと言われることだけは避けたかった。傷付かないで済む距離感をキープしていた。
人間関係が器用で、要領が良くて、自分勝手なところもあるのに、なぜか愛されキャラで、他者から好かれやすい。とても自由で、冒険心が強くて、何でも挑戦できて、私が知らない広い世界にも連れ出してくれた彼。好きという恋心よりも、閉鎖的な自分とは対照的な性格の彼に憧れを抱いていた気がする。
《もう一度あの日に戻れたとしても 繰り返してしまうでしょう 私はきっとそう》
好きになってしまった人と出会わなければ良かったかもしれないと思う時もあった。どうせ都合の良い女にしかなれないのだから、本当は心が苦しいのだから、非常時だけ招集されるような彼の非常道具みたいな所有物でいることが耐えられない時もあった。けれど、全然必要とされなかったわけではなく、たしかに必要とされる瞬間があったから、その一瞬でも私は側に居られて幸せを感じてしまったから、過去に戻れたとしても、私がビニール傘だとすれば持ち主はやっぱり彼を選んだと思う。他の誰でもなく、彼のビニール傘になることを望むと思う。
《この雨がこのままずっと降れば 願ってはいけない そんな事は分かってる だけど 君に降る雨が いつの日か上がって青空を望んだら その時私はきっと》
他人の不幸を望んではいけないはずなのに、うまくいかないことがあった方が必要とされるなら、彼がずっと他の女の子たちと都合が合わなければいいと思うこともあった。彼が会っている女の子たちに敵う要素のない自分ができる唯一のことは、せめて彼に雨が降った時、傘を差してあげることくらいで、その役目さえなくなってしまったら、自分は捨てられる。雨が上がって、捨てられるのが怖かった。腕が疲れても、彼のため傘を差し続けたかった。
《もっと自分の事をこんなに知らなければ もう少し幸せな未来も望めたのかな》
自分の外見って鏡を使わないと見えなくて、自分ではそれほど必要じゃなかったりする。外見なんて、他者のためにあると思っている。化粧をするのだって、自分のためというより、他者のためだろう。自分では鏡がなければ見えないのだから。自分がブスだと自覚しないまま、平穏に生きていられれば、こんなあまりよろしくない人間関係を築くこともなかったかもしれない。けれど、自分がビニール傘レベルと自覚した時から、ビニール傘なりに、幸せな時間もあった。全部が不幸だったとは思えない。なぜか彼が許せないとか憎いとか思えない。たとえ使い捨て目的だとしても、私を必要としてくれたから。誰にも手に取ってもらえず、売れ残るよりは、一瞬でも持ち主になってもらえてうれしい。恨めない。でももしも高級な傘に生まれていたら、もっと幸せを感じられる時間が長かったかもしれない。大切にされる存在が羨ましくも思えるけれど、ビニール傘としては上等の人生だったと思っている。
《あの雪の日 私を閉じ空を見上げた 泣いているように見えた笑顔に私は触れられない》
雪も雨と似たようなものなのに、雪だと傘を必要としない人もいる。傘って条件が合わないと利用してもらえない。風が強すぎても使えないし。だから、持ち主が確実に手に触れる時間は他の日用品と比べたら圧倒的に少ない。
私は彼の笑顔をどれだけ見たことがあるだろうか。不機嫌だったり、退屈そうなタイミングで会うことが多かったから、笑顔に触れたことなんてほとんどないかもしれない。自分は彼に雨が降った時、心に安らぎを与えられる傘になりたかった。傘になってあまり見たことのない彼の笑顔を取り戻したいと願ったのだと思う。自分の意志で。
《哀しくて美しい思い出が 走馬灯のように 希望がちらついてしまう この醜くて本当の気持ちが強くなる前に きっと吐き気がするほど眩しい太陽》
でも彼が困っている時、力になれるということはもしかしたら他の誰よりもずっと私のことを必要としてくれて、いつかは一番大切な存在に昇格させてくれるんじゃないかとか淡い期待を持った時期もあった。透明なビニール傘にも色を与えてくれるんじゃないかと希望を捨てない時期もあった。けれど、一生独身を謳歌するように見えていた彼は私の知らないうちにいつの間にかちゃんと結婚していた…。
《私の気持ちは自由だと誰かが言った そんな事ないわ 運命よりも変えられないの》
《雨が静かに上がり傘立てに置かれた傘 忘れた事さえ忘れられてしまったような》
傘が持ち主に好意を抱くのも、人が異性を好きになるのも、それは自由なことかもしれない。けれど、好きになった相手に伴侶として選んでもらえなければ、好きという気持ちは虚しいだけ…。好きな相手に伴侶ができてしまったら、好きという気持ちを持つこと自体、ルール違反になってしまって、全然自由に想うことさえできなくなる。ビニール傘に生まれたという宿命は結局変えられなかった。雨が上がった彼に私は必要とされなくなった。忘れられ、傘立てに置き去りにされて、劣化して、傘としての利用価値もなくなったというような若かりし頃の苦い思い出とこの楽曲が重なった。
ビニール傘と都合の良い女の生き様が似ていて、傘を擬人化した歌とは言え、ほろ苦い恋愛を経験している人にはより共感しやすい楽曲になっていると思う。
恋愛に限らず、対等でなくあまり健全でもない関係だからこそ、つながっていられる関係は少なくない。誰にでも憂いや禍はあるから、やさしさに見せかけて弱みに付け込むような相手を無意識のうちに求めてしまったりする。利用されたり、利用したり、あまりバランスが良いとは言えない利害関係だけで成立している人間関係は世の中にありふれている。
《強いようで弱い でも弱いようで強い》「イルミネーション」
人間ってそういう存在だから、誰も傷付かない清く正しい関係だけを築くことは難しい。
自ら主張できない存在の虚しさが《透明》という認知されにくいビニール傘に象徴されていて、都合の良い関係を築く人間のエゴと、いずれはゴミになってしまう使い古しの存在として忘れられてしまうビニール傘の悲愴感がこの楽曲には色濃く表れている。
元々、ビニール傘の場合、ビニールが剥がれたら骨組みだけが残る。嵐の翌日、道端に転がっている骨だけが残った傘を見かけると、傘って人間みたいなものだなと思ったこともある。人間も最後は骨だけが残るから。つまり傘は見方によっては人間に近いから、他のモノと比べたら擬人化しやすいかもしれない。
作詞したFukase自身は動くことのない傘の擬人化が簡単ではなかったと言及しているので、これはあくまで私の主観であるが。
セカオワは「Hey Ho」という楽曲においても、ゴミのような存在に価値を見出してくれている。
《ぼろぼろの思い出とか ばらばらに壊れた気持ちも 大事にしたから大切になった 初めから大切なものなんてない》
《汚れた荷物、笑えるくらいゴミみたい でもどうしようもなく 大切で》
そもそもゴミとは何かという話になるわけで、私は震災後、「瓦礫」という言葉が頻繁に使われていたのが嫌でたまらなかった。ニュース等では一言で「瓦礫」つまりゴミ扱いされて仕方ないとは言え、元々は誰かの大切な家だったり、ひとつしかない手作りのオリジナルのモノだったり、宝物だったりするのに、それを汚れて壊れたからって「瓦礫」と言われてしまうのが、悲しく思えた。それをセカオワはちゃんと歌詞の中で提起してくれた。ぼろぼろでも壊れていてもゴミみたいに見えても大事にすれば大切な存在になるんだよって教えてくれて、この楽曲に救われた。一見、ゴミに見えても、もしかしたら誰かの大切なモノなのかもしれない。
そこで話は「umbrella」に戻るわけだが、《忘れた事さえ忘れられてしまったような》ビニール傘も、使われなくなってボロボロになって劣化していたとしても、それはもしかしたらゴミではないかもしれない。ゴミではないと願いたいのかもしれない。私は長いこと、日の目を見ることなくホコリをかぶって傘立てに置き去りにされてしまっていたけれど、本物の傘と違って、運命よりも自分の気持ちを変える自由を持っているはずだから、自分の意志で新しい持ち主を探して、ゴミになっても大切にしてくれるような人を見つけたいと思った。せめて私のことを忘れないでいてくれる人と巡り会いたいと思えた。雨の日だけでなく、雪の日も眩しい太陽の日も、少しは側にいてくれる人と出会いたいと思えた。歌詞もメロディもどうしようもなく切なく、もの寂しさが漂う楽曲だけれど、不思議なことにいつでもセカオワには一筋の光が射し込んでいて、一抹の希望が捨てられない。彼らのファンタジーな世界がそうさせるのだろうか。
まるでショパンの前奏曲「雨だれ」に匹敵するほど的確に雨の音を表現したSaoriが奏でるピアノの音色が特に歌が終わったラストまで名残惜しむように静かに鳴り響いているため、忘れられてしまったはずの傘にその後の続きの物語がある気がして、その傘にも明るい未来があることを願って止まない。持ち主に捨てられても心を捨てきれない、未練が残る傘の心情が最後のピアノソロに込められている気がする。
この楽曲はひたすら短調で、サビで転調しても、短調である。最初から最後までとにかくずっと暗い。ピアノが印象的な曲なので、思い出したのかもしれないけれど、バッハのピアノ曲シンフォニア第11番ト短調が頭の中でふと蘇った。余談だが、「umbrella」のマイナー調メロディが好きな人には是非この曲をお勧めしたい。「umbrella」と併せて聞いてみてほしい。
単純に擬人化した楽曲ということではなく、その擬人化から人間関係や過去の自分これからの自分を追求させてくれて、憂鬱な梅雨の季節、この楽曲と出会って鬱々とばかりしてはいられなくなった。
雨が降るから、出会える関係もあって、雨は忌々しいばかりではなく、傘や誰かにとっては恵みのありがたい存在であることにも気付けた。そうしたら、雨が少し好きになれた。傘も大事にしたくなった。今まで中途半端な雨降りの日、傘を持つのが億劫だったけれど、傘を大切にしようと思えた。これまでさほど気にも留めていなかったビニール傘を見る目が変わった。私はビニール傘というあまり報われることなく寄る辺ない存在をなるべく忘れずに生きていきたい。雨の日だけでなく、晴れの日も。
セカオワはどんどん進化しているなと感じる。架空の生物が登場するファンタジーが得意だったブレイクしたばかりの頃と比べて、どんどんリアリティが増して来ている。元々、戦争や正義、精神の病気など現実的なテーマも取り上げて、楽曲にしていたけれど、「umbrella」はモチーフ自体、傘の擬人化というファンタジー寄りなのに、平等ではない関係性や、最後はゴミとなってしまう不遇なニュアンスが込められているため、社会風刺に近く、妙にリアリティがある。そのバランスが絶妙で、「umbrella」はセカオワの新しい一面が開花した楽曲になったと実感した。
この作品は、「音楽文」の2020年8月・月間賞で入賞した宮城県・束の間 晴風さん(37歳)による作品です。
寄る辺ない存在に慈しみの雨を - SEKAI NO OWARI「umbrella」と私の過去
2020.08.13 18:00