藤井 風、ただの「w」だった。 - これはもはや音楽ではない

そよ風。つむじ風。北風。南風。強風。暴風。ビル風。潮風。追い風。逆風。空風。隙間風。



思いつく限りの「風」を挙げてみたが、早々に「風」という文字がゲシュタルト崩壊してしまった。もう漢字には見えない。なんだこの禍々しい謎の記号は。


「藤井 風」という文字列は何度か観測していた。その度に「新しいお笑い芸人かな・・・?」と思うだけ思って気にも留めずそよ風のようにふわっとスルーしていた。「藤井」に漢字一文字が付くとどうも私の脳みそは勝手に「藤井隆」を連想してしまうらしい。なんてことはない。ただただ「イエローハット世代」なだけだ。小学生の頃、誰もが皆「アレ」を真似していた。不可抗力なのだ。だから「藤井 風」もきっとお笑い芸人か何かだろう。「藤井」は本名で「風」は芸名なのだろう。そうだ。きっとそうなのだ。


ところがある時から「藤井 風」という文字列を観測する回数が劇的に増えた気がする。どこからともなく吹きすさぶ風、風、風。「藤井 風のアルバム」「藤井 風の曲」え?「藤井 風」って、お笑い芸人じゃなかったの?自分の頭の中だけで勝手に建設していた「藤井 風像」がどんがらがっしゃんと崩れ落ちた。


アルバムということは、サブスクにもいらっしゃるのでは?イエローハットのCMもすっかり形を変え、まっこと便利な時代になったものだ。「藤井 風」と検索欄に打ち込む。「藤井 風かぁ・・・ギター1本持って青い空と白い雲をバックにどこまでも広がる草原で歌う系かな・・・髪型は小学生の時からずっと同じ床屋で切ってる何の飾り気もない黒髪の短髪、黒縁メガネに白シャツに真っ青のジーンズなんか履いてたりして・・・背は低くてスタイルはあんまりよくなく中肉中背で・・・ちょっと田舎くさくて垢ぬけてないナチュラル系シンガーソングライターかなぁ・・・」と想いを巡らせまた新たな「新・藤井 風像」を建設する。さっき崩れ落ちたばかりなのに懲りずにまた新たな像を建てる自分の調子の良さには呆れ果てるばかりだ。「文字列から勝手に人物像を想像しとんでもない先入観を持っては勝手に像まで建てる人ランキング」があったらどうか私を真っ先に推薦してほしい。きっと世界が獲れるだろう。



検索結果に出てきたのは、目を閉じたNICO Touches the Wallsの光村さんだった。



み、光村さん、なんでこんな所に?自分の心が一気に哀愁を帯びる。ニコは間違いなく私の青春の1ページを形成してくれていた大切なバンドだ。「活動終了」というニュースを知った時、私の心の中のアルバムのようなもののページは突風に吹かれたように一気に前にめくられた。前の前の前の前の前の前のページくらいが突如あらわとなり、そこにドカンと穴が開いたような気分になった。確かに「どこまでも行くよ!」とは書いてあったけど、光村さんの行く先はここだったのか。モ、モデル?他のアーティストのジャケ写の?あの日オリックス劇場の2階席から見た景色を思い出した。あまりにも急角度すぎて、メンバーのつむじを越え後頭部がばっちり見えそうなくらいの急角度。富士急の高飛車のように1回えぐれとんちゃうかというくらいの急角度。私の中でニコは「凄まじい急角度で見たバンド」として認識されたままだ。この先もずっと。そしてNICO Touches the Wallsのどこが大文字でどこが小文字なのかを完璧に覚えていた自分になんだか嬉しくなった。私の中にちゃんと染み込んだままだ、このバンドは。


嬉しさをかみしめてばかりはいられない。謎を解明しなければ。これは本当に光村さんなのか?だとしたら、なぜ他のアーティストのジャケ写に?光の速さでGoogleを開き「藤井 風 ジャケット 誰」と打ち込む。結果、本人だった。全くの他人だった。光村さんでもなんでもなかった。というか、目を開けたら光村さんでもなんでもなかった。しかしなんだろう、顔が「オシャレ」だ。イケメンだとかそういうのではなく、顔が「オシャレ」なのだ。顔面がもはや一つの造形物のようで、美術品のような人。たまにいるよな、こういう人。


ついでにWikipediaを開く。


「岡山県里庄町出身」「陸・海・空・風と名付けられた4兄弟の末っ子」「12歳からYouTube」「実家が喫茶店」「音楽経験のない父親からピアノやサックスを習う」「絶対音感」「英語の学習も幼少期から」「岡山弁」「一人称はわし」「高校のジャージが部屋着」


黙ってそっとページを閉じた。だめだ。情報量が多すぎるかつ情報のジャンルが大渋滞を起こしている。ここは盆休みの中央道下りだろうか。そもそも、あのビジュアルにこの情報を紐づけるのは無謀だ。この情報量を一気に飲み込むのは危険だ。迂回しよう。そろそろダウンロードも完了しただろう。サブスクに戻る。さあ、1曲目を・・・



「何なんw」



いや、どちらかというとこちらが「何なんw」である。ジャケ写から認識した、美術品よろしいビジュアル。Wikipediaから認識した、どんな名脚本家も驚き恐れおののくようなノンフィクションなバックグラウンド。からの、「何なんw」と言われると「あれ?『w』ってなんかそういうオシャレな記号だったっけ・・・なんだったっけ・・・」と本来のインターネットスラングとしての意味を見失ってしまいそうになる。いや、そもそもこの「w」はスラングだと決めつけていいのか。全く他の意味を持った「w」かもしれない。慎重にいこう。慎重に再生ボタンを押す。



どうしたんだろう、笑いが止まらない。



これは爆笑だとか嘲笑だとか失笑だとかそういう名前の付いた笑いなどではないのである。なんだろう、この新たな笑いに名前を付けたい。とにかく勝手に口角があがりニヤニヤしてしまう。誰にもこの姿は見られたくない。おそらく今自分はめちゃくちゃニヤニヤしている。でもその理由が自分でもわからないのだ。とにかく勝手に笑いが込み上げてくる。底知れぬ、出所もわからぬ笑いだ。


《それは何なん
 先がけてワシは言うたが
 それならば何なん
 何で何も聞いてくれんかったん
 その顔は何なんw
 花咲く町の角誓った
 あの時の笑顔は何なん
 あの時の涙は何じゃったん》


笑いがとまらない。何度も言うが、これは名前の付いた笑いではない。今、私はまだ名前のついていない新たな笑いを自分の顔面から生み出しているのだ。ただ一つ言えるのは、中国地方に生まれてよかった。そして、数年間岡山に住んでいてよかった。だからこそ、だからこその笑いなのだ。きっと、私が別の場所で生まれ別の場所で育ち別の場所に住んでいたらこんな笑いは生まれなかった。《何なん》《何で何も聞いてくれんかったん》私は今まで一体何万回この言葉を言ってきたのだろう。時には笑いながら、時には怒りながら。この言葉は言葉だけど、あの土地に暮らす人々にとっては「感情」そのものでもある。友達であったり家族であったり、自分が心を開いた人にしか見せない「むき出しの感情」そのものだ。そんな馴染み深すぎる言葉が今、今まで知ることのなかった何かを纏い全く知らない言葉のように耳から流れ込んでくる。だから笑いがとまらないのだ。なんだこの現象は。逆に、この方言に馴染みのない人はこれを聴いてどう感じるのだろう。私が東北弁を聴いた時と同じような気持ちになるのだろうか。この曲が東北弁で書かれていたら私はどう感じていたのだろうか。なんだこれは。もはや聴く日本語学、聴く日本語方言学ではないか。


そして何より、方言丸出しのライティングの合間に突然刺し込まれる《花咲く町の角誓った》というあまりにも一瞬の刹那を切り取る叙景的な表現がたまらなく良い。たまらなく突き刺さる。なんなんだこれは。だからこちらが言いたい。叫びたくてたまらないのだ。「何なんw」と。


「何なんw」
「もうええわ」
「優しさ」
「キリがないから」
「罪の香り」
「調子のっちゃって」
「特にない」
「死ぬのがいいわ」
「風よ」
「さよならべいべ」
「帰ろう」


サブスクの画面をなぞりながら絶望した。こんなに何の想像もできない文字列があるだろうか。基本的に、曲のタイトルには曲の実体が多かれ少なかれ反映されているような気がするのだけど、どうやらこの人にはそんな固定観念など通用しなかった。



それはきっと、この人が「風」だからだ。



風は目に見えない。そして時と場合によって、ありのままのありとあらゆる姿を見せる。到底想像の及ばない存在だ。夏は気怠くもわっとした熱風がどんより漂う。冬は冷たく身を突き刺すような風が縦横無尽に吹きすさぶ。都会のビルの合間を突き抜ける風はどこか無機質で、堅苦しい「社会」を運んでくる。草原を吹く風は自由自在に野山を駆け回り、壮大な「自然」を運んでくる。


アルバムを通しで聴いた。通しで何度も何度も聴いた。何度聴いても、これが一人のアーティストが作り上げたアルバムだとは到底思えないのだ。11曲、11人の違う誰かがいるような。11曲、全てが違う色を帯びているような。メロディと歌詞の区別すらないような。音と言葉の区別すらないような。「音に言葉がのっている」なんて表現が最高に陳腐だと思えるような。「メロディ」や「歌詞」という概念すらそこにはない気がした。温度を、においを、湿り気を、景色を全て巻き込み一体化させたひとつのものとして流れてくる「風」そのものがそこにはあった。ひとたびそれを感じそれに撫でられた時、自分の奥の方のまだ名前のついていない「感情」が引きずり出されてくる感覚。



「何なんw」車が動き出すと同時にゆっくり窓から入ってくるあの風。
「もうええわ」ドアが強く締まった時に意図せず生まれるあの風。
「優しさ」春の芽吹きのにおいをまったり含んだあの風。
「キリがないから」都会のビルの合間を縫うように吹く生ぬるくも厳しいあの風。
「罪の香り」地下の建物に入る時にドアを開けるとその挟間からぶわっと生まれるあの風。
「調子のっちゃって」自分の薄汚れた部屋の窓を開けると入ってくる清らかなあの風。
「特にない」積もった落ち葉を軽々と舞わせるあの風。
「死ぬのがいいわ」鼻の先が凍ってしまいそうなしんとした冷たさを従えたあの風。
「風よ」諸行無常の理を悟ったかのように桜の花びらを散らすあの風。
「さよならべいべ」どこか遠くで気怠く吐き出された煙草のにおいがうっすらにじんだあの風。
「帰ろう」開かれた場所で自分の全方位からありのままに感じるあの風。



音楽を聴いている気がしない。きっと私はただ「風」を感じているだけだ。



今まで聴いていた音楽は扇風機やエアコンのようなものだったのかもしれない。いや、私がそれを求めていただけだ。扇風機は便利だ。スイッチさえ押せば風を作ってくれる。スイッチひとつで強弱も自由自在だ。なんなら首だって振ってくれる。タイマーだってついている。マイナスイオンやら何やら吐き出してくれるものだってある。エアコンはもっと便利だ。暑ければ冷風を出せばいい。寒ければ温風を出せばいい。いつだって自由自在に対応してくれる。冷やしてほしい。暖めてほしい。自分が望みさえすれば、その欲望をいとも簡単に満たしてくれる。きっと今までそんな音楽を探していた。今の自分の気持ちを代弁してくれているような。今の自分が抱えている悩みやいらだちを昇華しエネルギーに変えてくれるような。暖まりたい。涼みたい。進みたい。答えが欲しい。肯定してほしい。好きな時につけて、好きな時に消す。私はきっと、自分の欲望を音楽で満たそうとしていただけだった。



この音楽は違う。



今、そよ風を感じたかったら一体どこへ行けばいいのだろう。わからない。うだるように茹だったあの熱風を感じるにはどこへ行けばいいのだろう。わからない。大地のにおいを思う存分含んだあの風は、だだっ広い草原にでも行けば感じられるだろうか。草原に行ったって、風が吹いているとは限らない。天気予報だってあてにならない。風のことなんて、そこにいかないとわからない。自分の思い通りにはいかないし、欲望を満たしてもくれない。暑い時は熱風が吹くだけだし、寒い時は冷風が吹くだけだ。暑いからって冷やしてくれないし、寒いからって暖めてもくれない。追い風が欲しい時に都合の良い方向に吹いてもくれない。



ただ、ありのままをありのままに。



「新しい生活様式」のような言葉が生まれ、今この世界はこれまでの価値観や既成概念が全てひっくり返るような局面に間違いなくある。言うなれば今まで人々が必死に打ち立ててきた何かがどんがらがっしゃんと崩れ、世界は何もない更地であるかのように思える。何もない。だけど何もないからこそ自由に吹き抜けられるものがある。



「風」だ。



幸か不幸か、この作品はこんな時に世間に生み落とされた。車の中で聴く音楽すら定まらない日々が私の中で続いていた。音楽を聴くというのは、私にとっては服を選び着るようなものだ。寒い時にはコートやマフラーを。暑い時にはなるべく熱がこもらないような素材の半袖を。時にクーラーの風に負けないように薄手の羽織ものをカバンに忍ばせる。自分の状況に合わせてクローゼットから服を選び、着る。聴く音楽が定まらないということは、今自分が暑いのか寒いのか何をどう感じているかすら曖昧になっているということだ。そんなことで、自分が静かにぐらついていることを初めて自覚する。そんな時、ただこの「風」が心地よかった。どうせ暑いか寒いかもわからない。自分が何を求めているかもわからない。それならいっそ風に吹かれればいい。いや、風に吹かれなくてもそれでいい。結果的に自分の望むものが得られなくてもそれでいい。ただ、ありのままでいたい。温度も、においも、湿り気も、強さも自分で決められない「風」をありのままに感じることがただただ心地よかった。


そうしてしばらく曲を聴き自分の中でまた懲りずに「新・New藤井 風像」を建てたあと、床にキーボードを置き高校の指定ジャージを履き大股開きのう〇〇座りをしつつスローリーすぎる岡山弁を口から吹かせては指が長過ぎて二匹の大蜘蛛が鍵盤の上を踊っているようにしか見えない情報量の多すぎる弾き語り動画を見てまた私の中の「新・New藤井 風像」は必死の建設もむなしくどんがらがっしゃんと崩れ落ちた。だめだ。音楽に対する既成概念すらぶち壊してきたこの人に関して勝手な固定観念を持つことは到底許されないのだ。崩れ落ちた像の欠片を這って集めるようにして最後の気力を振り絞りCDを注文した。初回盤にはカバーCDが付いてくるのだという。商売上手オブザイヤー2020を盛大に授与したい。そして届いたCDの歌詞カードの右側を見て白目をむいた。きっとこの人、いやこの「風」はこの地球を縦横無尽に吹きすさぶとんでもない「風」になるのではないか。


好きな音楽を見つけると、それを作った人の思想やバックグラウンドをどうしても知りたくなってしまう。何を思って何を考えてこの音楽を作ったのか、どうしても知りたくなってしまう。それを知ることで音楽がまた違った輝きを見せてくれる気がする。私にとって、好きになるということは知りたくなるということだ。でも、この人に関して何かを知ろうとするのは野暮なことだというのはもう何度も懲りずに崩壊させた歴代の像の存在が物語っている。もう、私は何も知らなくていいし、「藤井 風像」なんていうものは全く必要ない。




今吹いている「風」がどこからやってきているのか、なんで吹いているのか、誰も知らないのだから。




・・・そして崩れ落ちたマイ藤井 風像の代わりと言ってはなんだが、「何なんw」の「w」は「wind」の「w」なのかもしれないという仮説をここに打ち立てて終わりにしておくことにする。




※《》内の歌詞は藤井風「何なんw」より引用


この作品は、「音楽文」の2020年7月・月間賞で最優秀賞を受賞した兵庫県・けけでさん(29歳)による作品です。


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