かつて私たちは誰もが“ファンタジーの世界の住人”だった。
かつてというのはコロナ禍以前のこと。好きなだけ大勢で集まって、好きなだけしゃべって、くだらないことで笑い合っていた。一緒に食事して、時間も気にせずお酒を酌み交わし、一緒に歌を歌う。スタジアムで歓声を上げながらスポーツ観戦を楽しみ、花火やお祭りなど季節ごとのイベントも当たり前のように楽しんでいた。そして密なんてお構いなしにライブやフェスで熱狂できていた。遠慮なく、一緒に感動を分かち合えていた。
行こうと思えば、世界中のどこにだっていつでも行けたし、誰とでも直に触れ合えていた。
今となってはかつての日常は、とても非日常的に思える。かつての現実はとても非現実的だし、かつてのリアルはまるで魔法の世界のようで、ファンタジーとしか思えない。魔法なんか使わなくても当然のごとく他人と触れ合える世界に住んでいた私たちはとても恵まれたファンタジーの世界で暮らしていたのだ。
幸せにどっぷり浸かっていた私たちは、突如ファンタジーの世界に現れた得体の知れない存在によって、それが当たり前のことではないと気付かされることになる。
得体の知れない存在とはもちろん新型コロナウイルスのこと。
その存在が台頭したことにより、人間社会はマスク生活を強いられることになった。五感の中で一番使いづらくなってしまったのは、当然、嗅覚。マスクをしていると匂いに気付きにくい。コロナ禍以前は、季節ごとに変わる空気の匂いや、花の香り、どこかの家の夕飯のおいしそうな匂い、ふと漂ってくる誰かの香水の香りなどにすぐに気付くことができていた。マスク生活で嗅覚が衰えてしまうのではないかと心配だし、ふとした匂いや香りに気付けないのは本当に寂しい。だから私はなるべく人のいない夜中に散歩する。自分以外の人がいない時は、マスクを外して思いきり空気を吸う。そして“夜”という匂いに気付く。朝の爽やかな空気とは違う。湿気を含んでいるような重くて深い闇の匂い…。
かつてはそのことに気付けただろうか。以前は嗅覚を抑える必要がなかった分、匂いや香りはありふれていて、夜の匂いなんてほとんど意識しなかったかもしれない。嗅覚を制限される生活になってやっと気付けた日常の匂いは今や非日常的で、当たり前でもなく、かけがえのない存在なんだと思い知らされた。
嗅覚だけではない。マスク生活により、特に会食時は気を遣うようになった分、なんとなく味覚も味気のないものになってしまった気がする。孤食が勧められ、誰かと一緒にしゃべりながら食事なんて御法度になってしまい、おいしいはずの食事が以前よりもおいしく感じられなくなった人もいるだろう。はっきり言って食事なんて、一緒に食べる相手次第で、どんなに失敗した手作り料理であっても、おいしく感じられるものだ。一流シェフがこしらえた高級料理だって、たった一人でテイクアウトして食べたなら、大切な人と一緒にレストランで食事した時の味とはなぜか違いが生じるだろう。つまり味覚は舌の感覚だけでなく、状況や一緒に食べる相手次第で変わる。よってコロナ禍で会食を控えざるを得ない状況の今、嗅覚だけでなく、味覚も衰えてしまっているかもしれない。
触覚も同様に、衰えてしまっているかもしれない。人との距離感を気にして、安易に握手などスキンシップできなくなった今、温もりや肌触りを感じる機会がめっきり減ってしまった気がする。例えばライブ会場で、隣り合う全然知らない人と接触してしまっても、かつてなら全然気にしなかった。むしろ汗だくになりながら熱狂している人たちの感触を感じられるあの湿度の高い空間が好きだった。それも今となってはまるで夢のようだ。日常的にも気軽に子どもや高齢者とも触れ合えず、なんとなく冷たい人間になってしまったようで、悲しい。
視覚や聴覚だけはかつてと同じように駆使できていると思いきや、そうでもない。イベント事はスマホやPCを使ってオンラインで見る機会が増え、オフラインで直接見る機会が減ってしまっている分、視覚の使い方もコロナ禍以前までとは少し変わった気がする。ブルーライトを見すぎて目が疲れるだけでなく、インターネットが普及した現代、世界中の景色を瞬時にリアルタイムで見ることも可能だけど、やっぱり生で見る景色は迫力が全然違う。眩しすぎる太陽の光とか、強風に視野を遮られるとか、見えない体験もできる生の現場はどんなに進化した4K・8Kという解像度の高いテレビでも敵わないだろう。そしてテレビやPC、スマホの画面越しに“匂い”だけは絶対、伝えることができない。
コロナ禍と聴覚は無関係のように思えるけれど、やっぱり少しは影響がある。ライブに行ける機会が減り、かつてほど生で音を楽しむことができなくなった。音は空気の振動として伝わるものだから、音楽は空気の振動を直に感じられる生(ライブ)で聴いた方が理想的だと知った。イヤホンも進化していて、高音質でクリアに聞こえるものが増えたかもしれないが、これもまた生には敵わないだろう。
このように五感のすべてが多かれ少なかれ、かつてまでとは違う使い方をせざるを得ない世界となり、感覚器官が鈍ってしまっている今、特に失われかけている嗅覚を取り戻してくれるかのように、リリースされたのが、香りをコンセプトとしたSEKAI NO OWARIの新アルバム『scent of memory』である。
嗅覚は五感の中で唯一、感情を司る大脳辺縁系に直接つながっているため、特定の匂いが記憶や感情を思い起こさせるという現象が起きやすい。マスク生活で嗅覚が鈍感になっている私たちはつまり、今の記憶や感情を呼び起こしてくれる未来に託したい匂いや香りと出会えていない日常を過ごして生きている。かつてと比べると、記憶や感情が残せていないおそれがある。鈍くなってしまった嗅覚を取り戻し、今を記憶し、将来、記憶を呼び戻してくれる匂いの役割を担ってくれる音楽になったのが、セカオワの『scent of memory』だ。
このアルバムの楽曲からはそれぞれ匂いが感じられる。「umbrella」からは雨の匂い、「silent」からはクリスマスや冬の匂い、「バードマン」からは朝の匂い…。匂いと共に、悲しみ、期待感、愛しさなどそれぞれの感情もたしかに伝わってくる。
香りをまとった楽曲たちは、今の記憶と感情を未来まで届けてくれる。将来、このアルバムを聴き返した時、コロナ禍の頃、あんなことがあったなとか、あぁこんな気持ちだったなとか記憶と感情をきっと思い出させてくれるだろう。
夜のイメージが強いセカオワは長い間、夜の歌を得意とし、夢の中みたいなファンタジー要素の強い楽曲を数多く、退屈な世の中に送り出していたけれど、最近は朝の歌も増えつつある。退屈だと思われていたコロナ禍以前の世界こそ、今やユートピアであり、魔法でも使わない限り、取り戻せないようなまるでファンタジーの世界だったと気付いたかのように、ささやかだけどかけがえのなかった日常、退屈だったかもしれないけど懐かしい現実を今回のアルバムの中で多く表現してくれている。
「バードマン」で繰り返される《おはよう》なんて、以前なら何の変哲もない平凡なただの挨拶言葉だけど、《今日》という新しく始まった日に向かって愛しむように繰り返し歌われているから、《おはよう》はまるで魔法の言葉のようだ。
「正夢」においても《おはよう》という言葉が使われている。
新しい日が始まるのは当然のことではなく、コロナ禍で多くの人たちが無事に明日を迎えられるか多少なりとも不安を抱えて生きるようになった。平凡な日々が《容赦もなく》続くことが幸せなんだと感じられるようになった人たちの心を代弁してくれているかのような歌詞である。
「family」では《ただいま》、《おかえり》という挨拶言葉が繰り返される。それらの言葉は《おはよう》同様、一見、魔法とは縁のないように見える何気ない日常の言葉だ。しかし、
《「おかえり」って言う事 当たり前すぎて分からなかった いつまでも 当たり前には言えないんだとか》
《「おかえり」の言葉を これから何度言えるのかな 今はもう 毎日のように言わなくなったから》
かつての日常ならスルーしてしまうような、ひらがな四文字の単純な言葉が、かけがえのない家族や大切な人と当たり前のように会えなくなった昨今、何の言葉にも代えがたい魔法の言葉に思える。魔法の言葉はうっかり見過ごしていただけで、コロナ禍以前からすでに日常の中に存在していたのだ。
ささやかな挨拶を言い合える相手がいることは、本当は奇跡的で、それがずっと続くわけではない。《助けて》、《大丈夫?》というような言い出せない感情を孕んでいるかもしれない四文字の挨拶言葉に実はとても救われて生活していたことを、リアルとファンタジーが逆転した世界になってしまったからこそ、気付くことができた。
そんな「family」という曲からは家族が集う家のやさしく穏やかな匂いが感じられる。
しかし匂いや香りは幸せな情景ばかりを思い出させてくれるものでもない。
「Like a scent」の歌詞には忌まわしい過去を彷彿させる匂いが多く、登場している。
《はっきりした血の臭い》、《ジャンキーたちのくせぇ息》、《消毒液の追憶》など…。
閉鎖病棟に入院したことがあるというFukaseの体験が反映されている楽曲で、聞いていると少しつらくなる。でもこれこそがFukaseの原点であり、屈辱的な過去だとしても、《あれは必要な戦いだった》と忌々しい記憶をちゃんと肯定し、受け止めている。
《人間失格》と人間性を否定されるようなつらい体験を思い出してしまう匂いなのに、本当は忘れ去ってしまいたい匂いかもしれないのに、《あの憎しみを音に変えた そしたらそれが世界を変えた 俺が創り上げたファンタジー》というように、匂いの記憶と向き合って、《俺はスターで居続けたいんだ》とはっきり言い切っている。
その忌々しい体験がなければ、セカオワのファンタジーは生まれなかったはずで、セカオワの音楽はまったく違うものになっていただろう。過酷な現実の代償として、ファンタジーの力を手に入れたようなものだ。Fukaseがその体験をしなければ、そもそもセカオワは存在しなかったかもしれない。
残酷な運命に抗うことなく、戦い続けたことで、ようやく手に入れた誰も真似できない独自の世界観を持つFukaseのファンタジーという名の音楽…。
つまり決して良い匂いとは言えない《鼻をつく匂い》こそ、セカオワの存在証明でもある。
他の人なら目を逸らしてしまうような、ゴミ箱に捨てられるようなものたちが放つ異臭さえセカオワは見逃さないし、どんなに汚れたリアルも、魔法の力で美しいファンタジーに変えてしまう。私たちがおいしくいただく食用の動物だって、さばく時は血の匂いは避けられない。どんなに香りの良い花も腐敗すれば異臭を放つ…。そういう厭われてしまう匂いこそ、セカオワは大切にしてくれて、彼らの嘆きを代弁するかのように楽曲に反映してくれる。
誰にでも愛される良い香りだけでなく、みんなから嫌厭され蓋をされてしまう匂いさえ音楽に変えて、光を当ててくれるのがセカオワだ。
「Like a scent」に関しては辛辣な歌詞が印象的なラップであるため、《ナイフ》みたいに鋭く刺々しく聞こえるかと思いきや、クラシックのように心洗われる坂本龍一の楽曲、「Happy End」の旋律が引用されており、ピアノやバイオリン、チェロなどが美しく奏でるサウンドのオブラートで歌詞のトゲが包まれているため、聞き馴染みやすくなっている。繰り返し聞きたくなる、中毒性のある楽曲だと思う。
そしてセカオワと言えば、“死”の匂いを感じさせる楽曲も少なくない。今回も「tears」で亡くなった人を彷彿とさせる情景を描いているが、サウンドがそうであるように、歌詞も決して暗くない。むしろ明るい。3年もかけて作ったというその楽曲からは、「死の魔法」で《全て無くなってしまう》、《どうして死んでしまうの?》とどちらかと言えば“死”をネガティブなものに捉えていた頃と比べると、悟ったような清々しさを感じられる。
《僕もいつか行く予定だけど 君がちゃんとガイドしてくれよ》
とネガティブな気持ちは感じられない。
《思い出すのはさ 君の笑顔なんかじゃなく 悪い顔だったりするんだ》
というように故人が生きた、生前の煌めきが象徴的で、“死”がモチーフの楽曲であっても、なぜか活き活きした“生”を感じられる。
「陽炎」において《蜉蝣の定めのように出会って 消えそうな命ごと貴方が 抱いてくれたこと でも、さよならだね》という歌詞があり、「周波数」においても《目に見えないものを 信じるようになった もう会えない人たちが 日に日に増えていくから》というように、どちらかと言えば“死”を意識するような歌詞が存在する。
この二曲はどちらもSaoriが作詞作曲を担当した楽曲であるが、Fukaseが「tears」で描いた死生観と同じく、そこまで暗さはなく、むしろ光も垣間見える楽曲だ。
“死”の匂いと言えば、真っ先にお線香の匂いを思い出す。長時間、お線香が焚かれた部屋にいると、髪の毛や洋服に匂いが染み付いてしまう。なかなか取れない。そしてその匂いが故人を思い出させて、もの悲しい気分になってしまう。
けれど今回のアルバムの中で死生観を感じられるセカオワの楽曲からは、お線香の匂いはあまり感じられない。喪失感による悲しみの匂いよりも、大切な人と過ごせた愛しさの香りが漂ってくる気がする。
コロナ禍以降、“死”がより身近な世界になった。死が非日常ではなく、日常になってしまったのだ。セカオワはどうにもならない、ままならない日常を非日常的なファンタジーの力を借りて、理想的なリアルに近づける努力をしてくれている。
日常と非日常、現実と非現実の逆転現象が起きてしまった世界で、セカオワが紡ぐ音楽が多少なりとも変わるのは不思議なことではない。セカオワはいつだってリアルと向き合い、世の中の歪みや矛盾を自分たちだけの音楽の力で失くすことができないか模索してくれていたから…。
死の悲しみや夜(暗闇)やファンタジーの方がリアルで日常になってしまった時代だから、逆に生の喜びや朝(夜明け)やリアルと言った、今となってはファンタジーかつ非日常をセカオワが奏で、歌ってくれるのは当然のことだろう。
今回のアルバムで印象的な側面として、多彩なボーカルも挙げられる。Fukaseの二人の妹がゲストボーカルとして参加した「family」、Saoriがボーカルを務めた「陽炎」、Nakajinがボーカルを担当した「正夢」など…。
アルバム制作中、一時的にFukaseがスランプに陥り、彼の負担を和らげる意図もあるかもしれないが、それ以上にセカオワのファミリー感、強い絆が伝わってくる。
Fukaseの美しいボーカルは言うまでもなく、唯一無二の歌声で魅力的だ。しかし美しいものは儚く、もろくもある。Fukaseは繊細な心の持ち主で、いつも自分自身の気持ちと戦っているように見える。だから時に心が折れてしまうこともあるだろう。
「バードマン」では《今日も何も出来ない そんな日がまた終わっていく》、《どんな日々も 何とか繋げてきたから》と歌っている。そんな時、黙って支えてくれるメンバーや家族がいるFukaseにしか歌えない歌がある。どん底に落ちてしまった時、《飛べない鳥》に飛ぶ力を与えてくれる仲間がいるから、Fukaseの歌声はまたファンの元へ羽ばたくことができるのだ。人一倍つらい経験をしている分、周囲の仲間から深い愛情をもらっていることを証明するかのようにFukaseの歌声は力強さとやさしさを増している。
《忌々しい記憶の匂い》がする過去を忘れられないのではなく、忘れないようにするために、時に身動きが取れなくなって立ち止まってしまうこともあるだろう。しかし《ただ上手くいかない》そんな気持ちも無駄にせず、自身が信じた音楽に変えている。そして一歩ずつ未来に進んでいる。それはFukaseの個人的な行為というより、むしろ今、コロナ禍においてあがき、もがいている世界中のすべての人を勇気付ける行為につながると思う。
多くの人たちが何をするにも上手くいかない状況で、手探りで生きている。《最悪だった昨日も あんな酷い 想いをしたあの日も きっと今日の 為だったんだと》と「バードマン」で歌われている歌詞はそのまま今の世界中の人たちに勇気を与え、寄り添ってくれる魔法の言葉になるだろう。
何もできなくても《容赦もなく》始まってしまう今日。昨日を一掃するみたいな爽やかな朝の空気。眩しい朝の匂いを愛しいと思える前向きな心が今の世界を励ましてくれるようだ。
文字や音に色を感じたり、味や匂いに色や形などを感じる感覚を“共感覚”と呼ぶそうだが、今回のセカオワのアルバムは音から匂いを感じられるし、その匂いが記憶と感情にたしかにつながっている。
当たり前のように季節の変わり目の匂いに気付き、花の香りを楽しみ、当たり前のように他者と触れ合い、会食し、気兼ねせずにライブで生の音楽を聴き、オンラインではなく、前の人たちの頭に遮られながら、ろくにアーティストの顔も見られずにそれでも楽しく生で見られて、リアルで様々なことを体感できていた喜びを、誰しも少なからず持っている忌まわしい過去さえもひっくるめて、幸せだったと思える日常の記憶を、思い起こさせてくれるようなアルバムになったと思う。
鈍感になった嗅覚を始めとする、衰えてしまった五感を癒してくれる楽曲がつまっている。歌詞やサウンドの中に、五感を取り戻す魔法がかかっている。
それを象徴するかのように、アルバムのジャケットには人体頭部の断面図が描かれている。特に鼻と脳が強調されている。
ひとつ前のオリジナルアルバムは目と唇が印象的なジャケットの『Eye』と『Lip』だった。視覚と味覚をすでに音楽で体現していたセカオワが今回モチーフに選んだのは嗅覚。その嗅覚から五感すべてにエネルギーが染み渡るほど力強いアルバムに仕上がっている。
共感覚の持ち主でもない限り、リアルではどんなに最新のイヤホンやテレビを使っても、匂いまでは伝わることは絶対あり得ない。リアルを追求する楽曲が増えても、セカオワからはやっぱりファンタジーの匂いが漂う。魔法使いから調香師になったセカオワが紡いだ『scent of memory』というアルバムからは聴く人すべての元へ、ちゃんと香りが届く。そしてその香りはこのアルバムを聴いた時期の思い出となり、記憶として残る。命に染み付く匂いとなる。かつての日常への憧れを描いた楽曲たちは、非日常的で手探り状態のまま生きる私たちの今を支え、将来思い出す喜びまで約束してくれる。
これをファンタジーと言わずして、何と表現できるだろう。以前までセカオワが表現していたファンタジーとは少し違うかもしれないけれど、かつてのリアルを追求するという新しい形のコロナ禍以後のセカオワのファンタジーはさらに魔法の力が増し、逆境の風に乗って、世界を席巻する香る音楽になるに違いない。
この作品は、「音楽文」の2021年8月・月間賞で最優秀賞を受賞した宮城県・束の間 晴風さん(39歳)による作品です。
リアルとファンタジーが逆転した世界で生きるすべての人たちへ - 嗅覚、五感を揺り起こす香りの音楽 SEKAI NO OWARI『scent of memory』
2021.08.12 18:00