先日、syrup16g の YouTubeチャンネルが開設された。
そこに一番最初に公開された映像は、『負け犬』の MV だった。
『負け犬』は、2001年にリリースされた syrup16g のファーストアルバム『COPY』に収録されている曲だ。
今から19年も前に世に放たれた曲である。だが、その『負け犬』は、時を経て2020年に再び、その本来の姿を露わにし、時代とリンクしたように、私には感じられた。「また国家予算内で死ぬの」というフレーズが、「保健所」というワードが、これほど重くのしかかってくる年はなかった。
2001年に syrup16g がこの曲の中に閉じ込めたものが、今になってこんなにもリアルに重く感じられるのは、なぜなのだろうか。それは、この国や社会が抱えている問題が19年経ってもたいして解決されずにいたこと、今年になってようやくコロナ禍によってその膿が放出し始めたことと無関係ではないように思う。
『負け犬』は、マイナーコードが多用されるイントロと「もしも僕が犬に/生まれたなら/それでもう負け」という強烈な歌い出しで始まる。そのせいで「鬱ロック」の象徴のように扱われてしまうこともあったのだが、よく聴いてみれば、この曲はそうしたカテゴリーや概念とはかなり遠いところにある音楽だということはすぐに分かる。
syrup16g が音楽を通して表現しようとしたものはいつだって「人間そのもの」であり、「人間そのもの」をできるだけ生々しく表現するために、syrup16g は人間が生きる空間に漂う空気もできるだけそのまま曲の中に閉じ込めようとしていた。だから、もしも syrup16g の曲に「暗さ」や「鬱」というものを感じるのだとしたら、それはあくまでも社会や時代の空気が暗かった、ということに過ぎない。syrup16g 自身は、むしろ曲の中でその暗い空気を風刺したりユーモアを持ってすり抜けようとしたりしてきた。この「もしも僕が犬に/生まれたなら/それでもう負け」というフレーズも、単に自分の境遇を嘆いたりいじけたりしているわけではなく、もし自分が犬に生まれたら、という仮定によって、あらゆる差別について風刺しているように聴こえる。「生まれ」という自分ではどうすることもできないものによって、固定されてしまう「勝ち」と「負け」。貧富の差や、ルッキズムや、男女差別。2000年代は、まだそれらに対して簡単に声を上げられるような空気ではなかったのだ。それどころか、否応なくそれらを受け入れることが当然だとされ、内面化することすら求められていた。このフレーズにはその頃の空気が流れている。
なんかおかしいな、嫌だな、と思いながら、声に出して言うことができないこと。
syrup16g は、そういうことを実にあっさりと、カジュアルに、韻を踏んだりしながら、メロディーにサッと乗せて歌っていた。それは、どうすることもできないこと、嫌なのに周りの空気によって受け入れざるを得ないこと、本当は変えた方がいいに決まっているのに絶対に変わらないこと、それらに対する唯一の、最後の抵抗だった。私たちは社会の空気の中ではそんな思いは顔にも出さずに、syrup16g を聴いているときだけ、こっそりそれらに抵抗していたのだ。
だが、あらゆる差別に対して声を上げるのは当然のことだ、という認識がやっと広がってきた今年になってみれば、『負け犬』で歌われていたさりげない風刺と抵抗は、決してこっそりしなければいけないようなことではなく、実に真っ当な叙述だったのだ、ということに気づく。ただの正当な主張が、なぜか普通ではないこと、平均値から外れたことのように扱われていたことの方が異常だったのだと、今になってみれば気づく。
それから、こんなフレーズもある。
「お金を集めろ
それしかもう
言われなくなった」
「頭ダメにする
までがんばったり
する必要なんてない
それを早く言ってくれよ」
何よりも経済や利益の追求が優先されてしまう世界。そのために個人が限界まで身を削ることが良いことだとされる社会。人間が経済のために使い捨てにされる社会。
syrup16g の五十嵐隆(vo&g)は1973年生まれ、中畑大樹(dr)は1974年生まれで、共に第二次ベビーブーム世代であり、就職氷河期に当たってしまった世代である。そして『負け犬』が世に出た2000年代は、派遣社員が増加し格差が拡大していった時代だ。
よって、これらのフレーズも単なる愚痴とか弱音ではなく、社会の空気の描写とその空気に対するわずかな抵抗と皮肉だったのだと思う。
これまで「風邪でも、絶対に休めないあなたへ。」(※1)などのコピーが目立っていた風邪薬のCMを今年は見かけなくなって、「かぜの時は、お家で休もう!」(※2)といったコピーのCMを目にするようになった。
体調が悪い時には会社を休むという人間として当たり前のことが許されない空気がこの国にはずっとあって、それは会社の中だけでなくこうしたCMや広告といったものからの圧もあり、驚くべきことにコロナ禍に陥るまでその空気は何十年も変わることはなかったのだ。「かぜの時は、お家で休もう!」(※2)って、本当に「それを早く言ってくれよ」である。
経済のために人間を蔑ろにしてきたことで結果的に経済成長が止まってしまい、結局何の為にもならなかったくだらない同調圧力の空気に対して、syrup16g が歌ってきたことは、人間として生きるために必要な、なんと真っ当な抵抗とつぶやきだったのだろうと、上記の2つのフレーズを聴いているとつくづく思う。そして、私たちが syrup16g の音楽の中でのみ、吐き出し解放してきた思いも、別に暗いものでも後ろめたいものでもなく、人間でありたいという願い、人間であろうとするための訴えにすぎなかったのだと、今ならばはっきりと言える。
『負け犬』は、スローテンポでどこか甘さの漂うサウンドの中で、五十嵐隆が気怠い声で上記のような歌詞を歌い、「耽美」「退廃」と形容されるような雰囲気で曲が進んでいく。だが、サビで轟音のギターが鳴ると、それまで歌っていたすべてのことがゆっくりと昇華され宇宙空間まで飛ばされていくような感覚になる。スローテンポの曲で、この迫力と爆発を見せることができるところが、syrup16g の真骨頂であると思うのだが、そのサビに五十嵐はこんな歌詞を乗せている。
「ねぇ どう
でも そう
多分そうでしょ」
社会の空気に対する真っ当な抵抗、人間としての正当な反応、それらを syrup16g はサビの轟音の中で、「どう」と問いかけ、「多分そうでしょ」と、自信なさげに、でもちょっとふてぶてしく、宇宙空間に投げて見せた。同調圧力だらけの、なかなか変わらない社会に、諦めきったような目の五十嵐が諦めきったような声で歌っているのに、その声は轟音の中でそれを聴いている私たちの中に「本当に俺がおかしいと思う?」「本当に君がおかしいと思う?」という、根源的な問いを残していく。諦念の先に渦巻いている五十嵐の業のようなものが、ずしりと胸の中に残っていく。
2001年には、その業のようなものにただただ圧倒されるばかりだったが、このサビも今年聴いてみると、「多分じゃなくて本当にそうだったな」と素直に思う。五十嵐が自信なさそうに控えめに歌っていたことは、何もおかしなことではなかったし、それどころか、今になってやっと放出し始めた数々の膿とリンクして、その生々しさと重さを増している。あの頃、轟音の中で「多分そうなんだけどなあ」と自信なさげに思っていた私も、あの頃の syrup16g が私の中にずしりと残していったものは、私だけでなくこの社会にとっての根源的な問題であり、今まさに外に向かって引きずり出すべきものなのだと確信している。
19年前に、syrup16g に出会った頃から、私にとって syrup16g はとても暖かい音楽だった。syrup16g を聴いているときだけは、人間の人間らしさに触れられる気がしたし、自分にも人間らしさがあることを実感することができた。それは、今にして思えば、何もかも諦めたような五十嵐が諦めきれなかった「人間が人間であること」への希求が、やさぐれと甘さが同居したようなサウンドや全てを塗りつぶすような轟音から、ぽろぽろと溢れ落ちていたからなのだと思う。
時が経って、様々なことに声を上げやすい空気に少しずつなってきたり、コロナ禍によって絶対に変わらないだろうと諦めていたことが一気に変わったりしたことで、『負け犬』という曲はただの弱音や愚痴を吐き出した類の音楽ではないということがよりはっきり分かるようになり、当初貼り付いていた「暗い」「鬱ロック」というイメージも徐々に剥がれていくのではないかという気がしている。そして、本来内包していた「人間そのもの」「人間らしさ」といった暖かいものが露わになり、以前よりもその体温が直接的に伝わっていくのではないかと思っている。
『負け犬』では、最後の方で「官僚も/ロックのロクデナシも/みんな負け犬でしょう」と歌われている。
このフレーズもまた、コロナウイルスや気候変動を前にすれば人間なんてみんな同じだということに気づいた、2020年の肌感覚とリンクしているように聴こえる。そして、これもまた実に正当な見解だったんだなあと思うと同時に、あの頃とはまた違う意味で心にずしんと響いてくるものを感じる。あの頃「そうは言っても勝ち負けはあるよね」と思っていた人も、今聴いてみるとまた別の思いや感触を抱くのではないだろうか。
このように、『負け犬』という曲をリリース当初と現在とで比較して聴いてみると、時代の変化によってその本来の姿が顕在化してきたこと、それによって2020年の現実と生々しく合致したことがわかる。それから、19年前の自分が抱いていた声に出せなかったたくさんの思いや根源的な問いを、悪いものや変なものとして片付けたり、腐らせないでいてくれたのは、syrup16g の「人間らしさ」と「暖かさ」があったからだと、改めて確信することができた。
五十嵐隆が諦念の先でこぼした気怠い声は、19年前も今も私の中で、この世で一番真っ当なつぶやきとして輝き続けている。そして、『負け犬』をはじめとする syrup16g のたくさんの楽曲は、2020年以降に YouTube やサブスクリプションで新しく syrup16g に出会う人の胸の中でも、時に牙を剥き、時に体温のようなぬくもりを渡し、誰かの特別な輝きになっていくのだと思う。これからだってきっと、syrup16g が閉じ込めたものを再生するたびに、私たちは何度でも「人間らしさ」を取り戻すことができるはずで、それができる間は生きていくことができると思う。
この音楽がこの国にあって、本当によかった。
(※1)エスエス製薬「エスタックイブ®ファインEX」広告コピーより引用
(※2)シオノギヘルスケア「パイロン®PL」広告コピーより引用
この作品は、「音楽文」の2020年11月・月間賞で最優秀賞を受賞した神奈川県・nantonakuさん(37歳)による作品です。
再考 syrup16g『負け犬』 - 19年の時を経て顕在化したもの
2020.11.11 18:00