SEKAI NO OWARIによるファンタジーとリアルの共存 - 『Eye』と『Lip』2枚のアルバムから見えたセカオワらしい世界

SEKAI NO OWARIの楽曲はファンタジーに見せかけて、実はリアルな歌が多いと私は思っている。今回『Eye』と『Lip』という2枚のアルバムが同時発売されて、そのことに気付いた。セカオワ=ファンタジーというイメージを払拭させるかのように、特に『Eye』においては痛いほど現実的な歌詞の楽曲が多く収録されている。

例えば「LOVE SONG」ではこんなフレーズが繰り返される。
<いつだって時間はそう 僕達を楽にさせて 少しずつ麻痺させて 最高な大人にしてくれる>

「ドッペルゲンガー」の一節。
<本当は分かってる 被害妄想気味だって 君らにはちゃんと感謝してるよ 辛くても続けてきたから>

「すべてが壊れた夜に」より。
<君の事も彼の事も 自分のことさえ分からずに それでも僕らは生きていく 何も分からないまま生きていく>

「LOVE SONG」なんてタイトルだけを知って、どんな愛が描かれているのだろうと思いながら、公開されたMVを見た時、タイトルと歌詞やメロディが想像していたものとは一致しなくて、少し戸惑った。
「ドッペルゲンガー」や「すべてが壊れた夜に」はタイトルから察するに、マイナーな曲調なのだろうと思っていたら、驚くほどキャッチーでポップな曲調だった。歌詞だけが妙にシリアスで現実的だった。

だからセカオワは面白い。既存の価値観とか、常識を良い意味で壊してくれるから。ファンタジーとリアルをうまく融合した音楽を作れるのは彼らだけだと思う。

2枚のアルバムを聞く前の予備知識として、『Eye』は良い子のセカオワだけでは歌えないダークな曲、『Lip』は一般的にセカオワらしいと受け入れてもらいやすいポップな曲がそれぞれ収録されているのだろうと思ったけれど、それも少し違った。

例えば『Eye』に収録されている「夜桜」なら『Lip』に収録されてもいいと思ったし、『Lip』に収録されている「ラフレシア」なら『Eye』に収録されてもいいような毒々しい歌詞だった。

セカオワの中では、ファンタジーとリアルの明確な境界線は実はなくて、それはリスナー側が勝手に決め付けてしまっているものなのだろう。ポップでキャッチーなメロディにファンタジー要素が濃い物語が描かれていれば、「ああ、いつものセカオワね。」と安心して聞いてしまったりする。マイナーな曲調に痛い歌詞が乗せられれば「セカオワにしては暗くて、らしくないな。」とか勝手に思い込んでしまっているのだろう。元々、アルバムにはダークな曲も少なくなかったけれど、特にヒットしたシングルしか知らないような人は彼らの暗い曲には驚きを覚えるかもしれない。

それを今回、2枚のアルバムに分けてくれたことで、改めて「セカオワらしさとは何か?」という疑問を彼らから投げ掛けられた気がする。

『Eye』の「夜桜」と『Lip』の「向日葵」はほぼ同じメロディで、テンポや曲調が違うだけだ。歌詞の内容も、せつない恋心を描いた面で同じだ。なのに、あえてどちらもアルバムに収録されたことに意義があると思う。どちらかひとつに絞るのではなく、どちらもセカオワなんだって教えてもらえたから。似た曲が存在してもいいっていうことを示してくれた気がする。こういう試みはセカオワならではだろう。この理論を活かせば、それぞれの曲で2曲ずつ制作し、2枚のアルバムの曲すべてで試すことも可能だろうと思った。こういう発想は考えたこともなかった。またひとつ、楽しいことを彼らから教えてもった。

そして個人的に特に気に入っているのは、Fukaseが歌う、女性視点の楽曲だ。『Lip』に収録されている「向日葵」と「千夜一夜物語」は「私」という女性視点で歌われている。Fukaseの声のトーンや歌い方が女歌にぴったりハマっていて、女性のせつない恋心を表現する歌声としては、最適だと思う。今回のアルバムの中で、シングルカットされていない曲の中でも、この2曲は一度聞いたらすぐ覚えられるようなキャッチーなメロディで、しかも歌詞の物語の世界観が洗練されていて、ずっと聞いていたくなる。報われない恋をしている人なら、なおさら、共感できるだろう。

実はここ数ヵ月、ファンタジー要素を含む現実的な小説や童話を個人的な趣味として書き続けている。思い付いて書き始めたら、案外さくさく書けた。そして気付いてしまった。私が作品の中で、描いている世界はSEKAI NO OWARIの世界観からインスピレーションを得ているものも少なくないと。セカオワを聞くようになって、5年ほど経過した。その間、何かを書いたことはなかった。セカオワ以外にも、同時にバンプやラルクも好んで聞いている。何も書いてはいなかったけれど、ずっと音楽を聞き続けていた。そうしたら、自然と憧れの世界、理想郷を思い描けるようになっていた。特にセカオワはファンタジーに傾倒している楽曲が多いため、無意識のうちにセカオワの世界観を自分の理想の世界に擦り込んでしまっているかもしれない。

そしてそのファンタジーの世界に逃げているわけではないことにも気付いた。受け入れがたい現実を夢や空想の力を借りて、克服しようというスタンスに私は目覚めた。作り物だとしても魔法があれば、つらい現実を克服できる。現実を見つめ直すことができたのだ。つまりセカオワが妙にファンタスティックで、たまにリアリズムなのは、きっとそういうことなんだろうと気付いたのだ。現実から逃げずに、いかに乗り越えるか、ということを考えれば、ファンタジーの世界が必要な場合もあるのだ。世知辛い世の中において、ファンタジーは救いのような存在なのだ。

それをいかに共存させるかはとても難しいことだが、2017年に彼らが小沢健二とコラボした「フクロウの声が聞こえる」の歌詞の中にあるように、<ベーコンといちごジャムが一緒にある世界>をセカオワなら、作り上げることができると思う。私はそれを彼らに委ねたい。そして私も見習って、精進したい。

『Lip』の中に「蜜の月」という曲が収録されている。<ビル、列車、缶ビール、タバコ>など現実的な言葉と共に、<月、雪、風、蜜、鳥>、<花、海、種、光、香り>と叙情的な言葉が散りばめられていて、とても印象的だ。「花鳥風月」、「雪月花」という言葉があるように風流な自然の美しさが描かれている。そしてその曲を聞いた私はまた創作意欲に火が付いた。

ファンタジーとリアルの共存は簡単なことではないけれど、できないことでもない。SEKAI NO OWARIがたくさんの楽曲を通して、それを実現させてくれているから。『Eye』と『Lip』という2枚のアルバムに確かな境界線はないとしても、分け隔てたことに意味は確かにあったのだと思い知らされた。今回リリースされた2枚のアルバムが、ファンタジーとリアルについて考えさせられる契機となったことは紛れもない事実だ。

「セカオワらしさとは何か?」という問いに答えがあるとすれば、きっとそれは「ファンタジーとリアルを共存または融合させることができる存在」という答えになるのではないかと個人的に思った。


この作品は、「音楽文」の2019年5月・最優秀賞を受賞した宮城県・小林宙子さん (36歳)による作品です。


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