PRINCE 1958 - 2016 -

 1986年の春、浪人が決まった私は、順風満帆とは言えない予備校通いをすることとなった。その年、プリンスが初めて来日公演を行なうという話が流れたからだ。そもそもチケットを取る段取りがわからなかったが、「まず新聞に告知が載るらしい」との情報から、早朝の新聞チェックを日課にした。真夜中に勉強して配達直後の朝刊を確認後眠りに就き、2~3時間睡眠をとって予備校に行き、帰宅後に残りの睡眠を取るよう努めていた。ほとんど寝ないというプリンスよりは随分楽をしたせいか、結局新聞発表は自分が新聞チェックできなかった日にあって、プロモーターの整理券は悪い番号となってしまった。
 ライブの日、席はとても悪かったのだが、悪過ぎて(機材が視界を遮り、ステージがまともに観られない)急遽スタンド席からアリーナに移動できたのだから何が幸いするかわからない。オープニングアクトのシーラ・E.が熱いステージを繰り広げる中、私達は係員に誘導されてアリーナの前方に向かってずんずん進んだ。スタンドから来た身には、信じられない視界の良さ。同行の友達の一人は「シーラ・E.のヘソが(肉眼で)見える!」と興奮していた。そして、シーラの興奮が冷めやらぬステージに“Around The World In A Day”のイントロが響き渡り、じらしにじらした後、引きしまった身体にはち切れんばかりのNRG(エナジー)を詰め込んでステージに飛び出してきた男が、熱したフライパンにぶちまけた鶏の油(チキン・グリース)のように終始跳ね回り、歌い、踊り、弾き、バンドと聴衆と空間を完全にコントロールして熱狂の渦に巻き込んだライブを観てしまったがために、その後の人生が大きく影響されてしまった。私のコンサート初体験は、Parade Tourの日本公演で唯一の演奏となったこの上なく美しい“Sometimes It Snows In April”と、多くの人達が彼の代表曲として認識している“Purple Rain”で終了した。途中、プリンスは目を瞑り、首を左右に振りながらギターの弦を切ってぶん投げてしまい、予備のギターも弾いた後にまたぶん投げてしまった。私は、プリンスが感極まっているのか、あるいは怒ってブチ切れてしまったか良くわからずにドキドキはらはらしてしまった。生で観るコンサートって、本当にもの凄い!と思ったものだが、生まれて初めて体験したそのコンサート自体がそもそも異常なものであったということはその後、今に至るまで観た三桁の数に及ぶライブ体験から思い知った。この日本公演ラストが、プリンスのバンドThe Revolutionの解散ライブとなったことは後日知った。
 
 無事大学に合格した私は、横浜市から関西に移り住んだ。プリンスのファンクラブにも入り、気合の入った他のファン達と交流する楽しみも知った。京都のレコード店で、持っていなかった“Little Red Corvette”のDance Mixを収録した12インチシングルを発見して即購入しウキウキしながら店を出たところでファンクラブの女性とばったり会って、喜び勇んで報告して勝手に運命感じちゃったりもした。まぁ、その子とは後に結婚したので、あながち勘違いではなかった。
 
 プリンスの2回目の日本ツアーとなるLovesexy Tourは、大学の後期試験の日程に綺麗に重なったが、私は全試験日程をぶっちぎり、ツアーを追っかけた(英語の先生と交渉をして、英語のプリンスの本を1冊丸ごと+雑誌を翻訳することで授業も免除してもらって単位をいただいたりもした)。関西や名古屋公演では、徹夜でチケットのために並んだ甲斐あって良席で観ることが出来た。最終公演アンコール曲“Alphabet St.”での、プリンス、シーラ・E.、キャット(映画『サイン・オブ・ザ・タイムズ』でも大活躍していたダンサー)、そしてバンドメンバー達との祝祭のような高揚感&一体感は、海外も含めて振り返る自分が観たライブの中でも頂点だったように思う。プリンスとバンドの間には、絶対的なリーダーと各人のプレイヤビリティを極限まで上げたミュージシャンという構図のうえに、それを超えた何かがあると感じていたが、あの日のステージで繰り広げられたものは「あぁ、これがラブセクシーか。これは『ブラック・アルバム』をメインに据えたステージで体現するのは無理だ」と心から思えたものだった。この時のバンドも、日本最終公演を最後に解散した。
 
 翌1990年、1992年とプリンスが最も頻繁に日本に来ていた時期、私もコンサート全日程を追い、Nude Tourではまたもワールドツアー最終日や、Diamonds And Pearls(D&P) Tourでは珍しくワールドツアーの初日を体験したりもした。ツアー開始時ゆえに、後者は日本でのプリンスのライブとしては珍しく変幻自在さに欠けていた(外に漏れ聞こえて来たリハーサルでは結構変わった曲もやっていたし、この来日時には裏で映像作品の撮影をしていたのであった)ことや、横浜市在住であったのにGlam Slam Yokohamaでのシークレットギグを逃したこと、更に1993年の彼の誕生日6月7日に彼があのシンボルマークに改名したこと(この日は私と妻の婚約記念日にした)等もろもろの事情を受けて、1993年の8月末には婚約者&友人達とAct II Tourのパリでのコンサートを観に行った。前年のD&Pツアーから7~8割の曲を入れ替え、2日間のライブでも、ピアノメドレーの曲目を一部変えたり、アンコールを「過去のヒット曲」の日と「未発表曲&自主制作盤の曲」の日に分けて構成したり、と期待を裏切らないものだった。ここで初めて耳にした“Endorphinemachine”が爆音で披露された際は、あまりの激しさ&暴走シャウト&ギターに「何だ、この曲は?」とパリの聴衆も、そして私も呆気にとられて若干置いてけぼり感すらあったが、これがその2年後、日本のお茶の間に広く浸透して“Purple Rain”の次に、あるいは世代によっては最も耳馴染みのあるプリンスの曲に化けたわけだから面白い。
 アフターショウは逃してしまったものの、パリ初日のコンサート会場では翌日にレコード店で彼のバンドThe New Power Generation(The NPG)が、「彼抜きで」サイン会をやるという告知があり、私と友人男性は疲労でぶっ倒れていた女性陣とは別行動で会場に向かった。リリースを巡ってレコード会社と揉めたThe NPGのアルバム『GOLDNIGGA」の発表にも関連しているのだろう(昨夜の本公演アンコールや、アフターショウでも新譜からの演奏あり)。列に並びながら、「やっぱりマイテ(バンドの紅一点で後のプリンスの最初の妻)にサインが貰えるのが嬉しいな」なんて考えていたところ、会場の雰囲気が急変した。急遽気まぐれな「彼」が現れたのだ。そして、マイテの隣に座り、サインを始めた。私はまだ自分の順番まで間があるのに、騒然とする会場で列に並びながらボロボロ泣き続けていた。メンバーにサインを貰い、いよいよ彼が目の前に。ツアーパンフを差し出し、震える声で彼に話しかけようとした。パリのレコード店で泣きじゃくる謎の東洋人に同情したのか、口ごもる私に、彼はちょっと耳を寄せてくれたような気もした。「U……Ur, Ur music saved my life…… Thank U」とかろうじて話したが、彼に通じたのかは良くわからない。彼は小さく「Uh-oh」と呟くか頷くかしてくれたようだったけど幻だったのかも。ボロ泣きする私を、隣に居たマイテが、温かく(あるいは、ドン引き?)見つめてくれていたのだが、頭が真っ白になった私はマイテのサインをスルーしてしまっていたことに後で気が付いた。ホテルに戻って、若干ビビリつつ彼がサイン会に来たことを婚約者に報告すると、彼女は「行って良かったね」と祝福してくれた。婚約解消並びに私と彼女の関係の最大の危機は無事回避され、その年に私たちは結婚した。

 その後、彼とレコード会社の紛争が激化した1995年、再び海外に遠征した。今度はロンドン、発売が未定のアルバム『The Gold Experience』、そしてやはりリリースが難航したThe NPGのセカンドアルバムExodusを自主レーベルから発売することにぶつけてのツアーだった。この時は、2日間でWembley Arenaでの本公演2回とEmporiumという小さなクラブでのアフターショウを2回満喫することとなった。アフターショウでは翌週に発売を控えた『Exodus』の収録曲やThe NPG名義の過去の曲、本人名義の未発表曲、カバー曲、あるいはギター誌の付録にCDを付けようしてレコード会社にストップをかけられた未発表アルバム『The Undertaker』(後日映像作品としてリリース)をほぼ丸ごと演奏したりという凄まじいものだった。翌1996年へ延期された日本公演は、ロンドンでの本編ライブがより完成された形で披露され、未発表曲“Glam Slam Boogie”ではこの曲を知らない人が大多数を占めるにも拘わらず「ふーぅ、ふーっ♪ふーぅ、ふーっ♪」というオーディエンスのコーラスが武道館に響き渡って何ともFree The Musicな体験をしたり、まさかのステージ上からの結婚宣言(「次に日本に来る時には、既婚男性になっていると思うよ」)に耳を疑ったりしたものだった。その1996年には、お腹の中でプリンスのレコーディング作品を浴び続け、ライブ体験をも済ませた娘が我が家に誕生した。

 次の来日は、それまでのプリンスで一番間が空くものとなった。私はその前に2回海外遠征をした(そのうちの1回はあのPaisley Park Studioがプリンス公認で開放された「A Celebration」という催しで、未発表曲がびっしり詰まっているという金庫「The Vault」の外観を妻と一緒に拝むこともできた)。「1999」年には、我が家に男の子が生まれた。名前は、彼の曲に因んだものにした。幸せだった。しかしその年、妻が癌であることがわかり、最初の手術を受けた。

 2002年、プリンス最後の来日ツアーは、NPGMCというオフィシャルファンクラブがあり、ほとんどの会場でサウンドチェックに入れてもらうことができた。休日公演の浜松に狙いを定め、プリンスのコンサートに初めて子供達を連れて行った。新幹線での移動、会場での並びを経て、端っこだけど最前列とその後ろの席を確保できた。サウンドチェックでプリンスがベースを抱えて“Let's Work”のファンキーなラインを弾き始めると、7歳の娘は機嫌が良い時には家でもやっているように、意外と腰を入れてピョコピョコ踊り始めた。あるタイミングで、ステージ上の反対側からプリンスがこちらを見て笑っているのに気が付いた。「Look at her!」 なんてことも言っていたようだ。遂には、娘を見ながら指をクイックイッとやってこちらに来いと招くではないか。しばらく唖然とした後、端っこからフラフラと中央付近まで娘を連れて行き立ち尽くしてしまったが、有名なプリンス・ファンの方が、娘をプリンスが待つ(?)ステージに乗っけてくれた。その後、気が付いたら息子も乗っけてもらっていた。プリンスは、ベースを掻き鳴らしつつ微笑んだりきりっとした表情になったり、指示を出したり左側に行ったり右に行ったりしていた。バンドメンバーも子供たちに気を遣ってくれ、グレッグ氏は息子が落とした星型のサイリュウムを、トロンボーンを吹きながら拾って手渡してくれたりした。曲は、“Peach”に移行し、最後にプリンスはステージ左側に敷き詰めてあるクッションにバタンキューと倒れ込んでいた。自分の命が最期を迎えるとき、もし神様が私に「自分の人生で最も幸せだった時をもう一度体験させてやろう」と言ってくれるのであれば、プリンスが居て、子供たちが居て、妻が居たこの時間を経て死にたい。散々踊らされた子供達(特に娘)はヘトヘトになったのだろう、コンサート本編の途中で力尽きて眠りに落ちてしまいお気に入りだった“Take Me With U”でも意識は朦朧、演目中で最も好きだった“Raspberry Beret”で何とか復活という感じであった。
 この最後の来日ツアーでは、「日本のライブハウスでプリンスを観る!」という長年の夢がZepp SENDAIで叶った。最前列かぶりつきで観た本編、そして客電が点灯した後にさすらいのギター野郎といった体で唐突に現れ、アコギで披露された“Last December”。終わった方が自然なのにそれでも出てきてくれたプリンス、最新アルバムからの大団円曲でありながらほとんど披露されることがなかったこの曲をやってくれたこと、その歌詞、日本中から集結したファン達のコーラス、本当に素晴らしいものだった。蛇足だが、当時の我が家では「うがい」は“Last December”のコーラスでやっていた。

 その後、毎年のように「今年こそ来日を!」と願いつつ、十数年が過ぎた。2002年ツアーをパッケージにしたライブアルバムの発表、主にNPGMCを通しての精力的な作品発表でコアなファンを満たしたかと思えば、全米興行収入No.1 Tourを伴った娘のお気に入りの『Musicology』、家族みんなで愛聴したファンキーな『3121』、妻が癌治療のサイバーナイフ照射を受ける際のBGMとして5日連続で施術室にCDを持ち込んだ『Planet Earth』、写真集と共に届けられたアフターショウ収録のライブアルバム『Indigo Nights』、ロックサイド・ファンクサイド・プロデューサーサイドを見せつける三枚組作品『Lotusflow3r』。彼からの作品は当たり前のように届けられて来て、常に私がその年に最も聴いたアルバムとなった。子供達は別にプリンスだけに偏ることもなく、妻が「初恋の人」と言っていたマイケル・ジャクソンであったり、レニー・クラビッツであったり、N*E*R*D~ファレルであったり、色々な邦楽アーティストたちを好きになり、家族でたくさんのライブに行った(日本の女性デュオPUFFYが一番多い!)。でも、プリンスは日本でライブをすることはなかった。

 2010年1月、妻は他界した。私は、プリンスが引き合わせてくれた最も素敵な贈り物を亡くしてしまった。自分の人生で、プリンスよりも大切なものができるとは思っていなかったのに。

 “Little Red Corvette”で彼を知って以来、当たり前のことだが別に人と話をするためにプリンスの音楽を聴いていたわけではなかった。でも、アルバム『サイン・オブ・ザ・タイムズ』の時期以降、彼の話を人とするのは、特に妻と話をするのは楽しかった。アルバム『20Ten』は、私にとってそんな大きな楽しみが突然失われてしまった特殊な一枚だ。妻が居なくて、私だけがプリンスのニューアルバムを聴いているのがとても不思議に思えた。
 
 2013年11月に吉祥寺バウスシアターで子供達と一緒にライブ映画『サイン・オブ・ザ・タイムズ』””を映画館で久々に観た際に、反抗期には「俺はマイケルの方が」「レニーの方が」とか言っていた息子が、“Housequake”での彼にゲタゲタ笑いながら「才能しか感じられない」と完全降伏した時には、我が意を得たり!と思った。CDフォーマットで発売された久々のアルバム『Art Official Age』の1曲目で若手プロデューサーと組んだ“Art Official Cage”を初めて聴いた息子はぽそっと「ダフト・パンクっぽい」と呟いた。うむ、EDMとも違うもんな。Perfumeのアルバム初回盤に付いていた特典DVDのラジオ企画でメンバーが「アルバムの曲順通りに最初から最後まで飛ばさず聴いて欲しい」「アルバム全部を1曲と思って」みたいなことを語るのを聴いた娘がぽそっと「プリンスみたい」と言っていて笑った。うむ、ラブセクシーのCDだな。アリシア・キーズfeat.ケンドリック・ラマーが主題歌(ファレルのプロデュース作品)をやった映画『アメイジング・スパイダーマン2』でジェイミー・フォックスの悪役っぷりを堪能した後は、ここぞとばかりに「この人もね、プリンス大好きなんだよ」と子供たちにジェイミーの全く違う側面をパッケージしたコメディライブDVD『アイ・マイト・ニード・セキュリティ」のハイ・クオリティなプリンス・ネタを見せて皆で大笑いしたり感心したりした。昔、妻とも大笑いした作品だった。『パープル・レイン』30周年記念の2014年には、映画のヒロインであったアポロニアをPaisley Park Studioに招待してライブが行われ、その音源がオフィシャルで公開されたので夜中にウハウハ聴いていたら「うるさいっ! 夜中に聴くなら、『Kamasutra』(1996年のアルバム『クリスタル・ボール』のプリンス・サイト直販盤のみに収録されていた5枚目のCD)とか『Xpectation』(NPGMC限定配信のジャズ・アルバム)とかもっと夜向けのがあるだろうがっ!」と息子にブチ切れられたこともあった。米国の人気テレビドラマ『New Girl』に出てくるプリンスをケーブルテレビで観て皆で笑いながら、これを妻が観たら、本当に気に入っただろうなぁと思いを馳せたりもした。プリンスは決して、懐かしんだり、「そういえば最近ごぶさただけど、今何しているんだろうなぁ」などと思う対象ではなく、ずっと生活の一部だった。「Price」と打たなければならないのに指が勝手に「Prince」と動いてしまい修正したことは両手の指の数でも足りない。彼は、常に現役で新譜(最新CDの『HITnRUN Phase Two』だって、一般流通する前にミネアポリスのお店からとっくに取り寄せていた)を、そして来日を一番待ち続けて来た人だった。

 そんな彼が、突然亡くなって、私は茫然自失となった。若い頃より映画やテレビのちょっとしたエピソードでも涙ぐんでしまうようになったというのに、彼の死を通勤途中の電車内で読んだスマホのニュースで突然知らされた時だけでなく、あまりの出来事に会社から家に帰っても涙も出なかったし、それはしばらく続いた。CNNのニュースでガンガン映像が流れてくるので、冗談やドッキリではないことは認識できるのだが、実感が伴わない。普段よりも、寧ろ淡々と穏やかに日々が過ぎていった。生前は、小さな記事でもチェックして雑誌や新聞に彼が載っているだけで、スポーツ新聞や安くはない輸入雑誌を買い漁っていたというのに、そう言えばバンバン出ていたらしい日本のスポーツ新聞にも頭が回らなかった。彼の逝去をきっかけに、YouTube等に彼の動画が溢れたようだが、それらにもなかなか食指が動かなかった。SoundCloudにアップされた彼の最後の公演のライブ音源に気づいたのは、そんな時だった。「ピアノ&マイクロフォン」と銘打たれたツアーで、彼は死の一週間前にも2ステージで数十曲を披露するコンサートを行っていた。しかも、いや、彼であれば容易に想像がつくのだが、曲目を違えた2ステージを連日繰り返すのではなく、日替わりで色々とやっていたようだ。
 鍵盤上を縦横無尽に走りまくる彼の指から繰り出されるピアノ、彼の歌声、それらが一丸となって繰り出される音楽。「この曲をやるのか」「この曲なんだろう……あぁっ、これか!」「おっ、この曲はわかりやすい」私は、いつの間にか聴きながら自分が微笑んでいることに気が付いた。コンサートは、“Sometimes It Snows In April”と、途中“The Beautiful Ones”の挿入もあったが“Purple Rain”で締めくくられた。私が、初めて観たプリンスのコンサートと一緒だった。単身でステージに立った彼は、このコンサートの後、バンドではなく自分自身を解散、いや現世から解放してしまった。
 ライブ演奏も、発表曲&未発表曲数も、そして同じ曲をあの手この手でアレンジする様相も、アーティストとしての生き方も、闘い方も、何から何まで過剰な人だった。あの過剰さが、私の残りの人生も照らしてくれますように。


この作品は、第2回音楽文 ONGAKU-BUN大賞で入賞したisakanaさん(49歳)による作品です。


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