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    『 ありのままをこえて 』 - —カネコアヤノの矜持—

     「何気ない日常をありのままに歌う」といった言葉でカネコアヤノの音楽が形容されているのを目にすると、何となく首を傾げたい気持ちになる。確かに彼女の音楽のほとんどは「日常」を歌ったものではあるけれど、「ありのまま」というには余りにも綿密な言葉によって、その歌たちは慎重に紡がれているからだ。

     カネコアヤノの音楽は、奔放で真摯なものであると思う。「奔放」でありながら「真摯」であるというと、一見矛盾しているように思われるかもしれない。
     しかし彼女の音楽は「自分のすべての感情を堂々と歌う」という点において、頑固なまでに真摯であり、またそのためには「死ぬまで変えない信念」も「その日限りの出来心」さえも、同価値のものとして並列に歌うという点において奔放であるというように、その矛盾が共存しているのだ。

     例えば「さよーならあなた」(2016年)では


     《うつむきがちな夏の朝には
      誰かに迷惑かけたくてしかたない》


    という衝動を吐露したあと、舌の根も乾かぬうちに


     《だから今だけ どうか今だけは
      魔法が解けるまで 愛しあおうよ》


    と、やたら切実に呼びかけてみせたりする。
    また、『祝祭』(2018年)の「エメラルド」ではこう歌われる。


     《クローゼットの中で
      一番気に入ってる
      ワンピース着ていくね
      帰りには焼肉でも食べたい
      大切なのは明るい明日だ
      (中略)
      大切なのは君との明日
      明日会えるね それだけで嬉しいよ
      大切なのは明るい明日だ》


     「焼肉」という言葉の唐突さは、聴くものに違和感を与える。とはいえ、「一番気に入ってる ワンピース」と並べられ、「大切なのは君との明日」という言葉に集約されるこの一節における「焼肉」というフレーズは、奇を衒ったものというよりむしろ、何か切実なものにすら響きはしないか。
     こうして、自らの胸に灯った感情であればどんなものでも、たとえそれがどんなに取るに足らないものであっても、彼女の歌はそれを卑下したりないがしろにすることはしない。だからカネコアヤノの音楽には、世の中に対して啖呵を切るようなシリアスな真摯さと、向こう見ずで臆面のない奔放さが、同じ熱量で共存しているのだ。


     《飽きないな
      若気の至りか 気持ちの問題か
      あとは抱き合って確かめて
      飽きないな
      若気の至りか どうでもいいことだ
      これからの話をしよう
      祝日 どこに行きたいとか》


     同じく『祝祭』の「祝日」においても、秘密めいた人間関係を仄めかす逡巡と独白の末に、突如それを「どうでもいいことだ」と切り捨て、結句には「祝日どこに行きたいとか」という日常に帰結する飛躍がある。
     こうした脈絡のなさは、先述のように聴くものに違和感を与えはする。とはいえ、そうした散文的な突拍子なさが、聴くものを突き離さず、むしろ引きつけるのはなぜなのか。

     それはつまり、私たちの生活そのものが脈絡のないものだからなのではないだろうか。
     人間の思考はあちらこちらに飛んでいく。はしゃいだ笑顔の裏では人に言えない不安を抱えているし、逆にどれだけ悲しくてもいつかは腹が減る。ひとりの人間の心というのは、迷惑かけたいという衝動と愛への希求が同時に存在しうるものなのだ。すなわち、私たちの行動は、気分や天気によって方向性を変えてしまうほどに覚束ない自らの「感情」という、ほとんど不可抗力なものに左右されているということだ。

     そうした、本来は整合性の希薄な人間の心模様の、ある一面だけを取り出して、真面目に見せたり戯けてみたりすることによって、自分の印象を作りあげるというのは、ある意味では容易なことだといえるかもしれない。
     カネコアヤノの音楽の特異性は、そうした安易さを拒否し、混沌をあえて受け入れているという点にある。そこには「喜びは嬉しく、悲しみは悲しく、恥ずべきことは恥ずかしく、誇らしいことは誇らしく歌う」ということへの飽くなき挑戦がみてとれる。
     そして、それこそが彼女における「真摯であろう」とする姿勢のことである。


     《みんなには恥ずかしくて言えはしないけど
      お守りみたいな言葉があって
      できるだけ わかりやすく返すね
      胸の奥の燃える想いを》


     『燦々』(2019年)に収録された「愛のままを」の一節は、その姿勢を端的にあらわしているといえるだろう。「みんなには恥ずかしくて言えはしない」ことを包み隠さず歌い、「できるだけわかりやすく返す」と控えめに約束しながらも、「燃える想い」が胸の奥に確かにあることを示唆する。それは、簡単には解きほぐせない人間の心の機微を可能な限り正確に伝えようとしているものである。

     このように、カネコアヤノが紡ぐのは「等身大」や「ありのまま」というクリシェなど生易しく感じられるほど周到に選ばれ、差し出された言葉たちだ。そしてそれは、見くびられることと買いかぶられることを拒み、自分の感情を過不足なく表現するために紡がれている。


     今年発表された『よすが』は、ある意味では非常に地味な作品だといえる。それはおそらく、これまでの作品に横溢していた奔放さ、つまり脈絡の無さが今作ではずいぶんと鳴りを潜めているからだ。


     《今日もなにも進んでない
      退屈なんだ この街のせいにしてる
      待っているのは本日着予定の荷物
      (中略)
      明日もきっと 変わりはない
      時刻はam3時33分 揃ったスロットみたい
      ラッキーなベイビーさ》


     「孤独と祈り」に歌われているのは、「今日は退屈だったし、明日もきっと退屈だ」という日常のことだ。それはいってみれば「整合性のとれた、脈絡ある」生活のことである。
     また「栄えた街の」においても、


     《今年はもうきっと何処へも行けない
      憎らしい暑い夏も
      今では恋しく思えるよ》


     と歌われる。今作に通底する「停滞感」のムードはもちろん、この一年以上の私たちの生活における行動が、気分次第で方向を変えることを良しとされていない、という事実を明確に反映している。「帰りには焼肉でも食べたい」と気ままに振る舞うことがはばかられるような世の中で、今までのような奔放さのままでいては、それこそ奇を衒ったものに感じられるかもしれない。

     カネコアヤノはほとんど当然のこととして、地続きに続いていく毎日をそのまま歌うことを選んだのだと思う。だから、『よすが』はこれまでの作品と比べて地味である一方で、これまでのどの作品よりも、彼女の音楽における「真摯であろう」とする姿勢を浮き彫りにする。


     《嫌で解ける 日々を編む
      少しづつよくなってけばいいね

      ブラインドの前でただ座るだけ》


     という「窓辺」における一節は、代わり映えのしない「脈絡ある日々」を、逃げも隠れもせずに受け入れるという覚悟すら感じさせはしないだろうか。

     そして、今この時代において、強くあろうとすることや何かを糾弾することではなく、《抱擁をまっていた 胸の中で》(「抱擁」)という、あからさまで、だからこそ切実な希求をあえて歌うことを選んだこの作品に、カネコアヤノの音楽における矜持のようなものを感じずにはいられないのだ。


    この作品は、「音楽文」の2021年6月・月間賞で入賞した東京都・芦塚雅俊さん(34歳)による作品です。


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