宇多田ヒカル
『Fantôme』
2016年9月28日発売
オリジナルアルバムとしては『HEART STATION』以来、実に8年半ぶり。「人間活動」に伴う音楽活動の休止も6年近くに及んだ。しかし、このニューアルバムに収録された、“二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎”、“ともだち with 小袋成彬”、“忘却 featuring KOHH”という驚きのコラボレーション曲が明らかになり、久々のテレビ出演も次々に果たされて、宇多田ヒカルの存在感が再び強まっている。
人生の中で二度と起こり得ない大きな喪失感を胸に《抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に》と歌った“花束を君に”からさらに踏み込んで、《一人で歩いたつもりの道でも/始まりはあなただった/It’s a lonely road/But I’m not alone/そんな気分》と歌う“道”から、このアルバムは始まる。先頃NHK『SONGSスペシャル』に出演した宇多田ヒカルは、“道”を「言い切れていないことを言い切った曲。すごくスッキリした」と語っていた。ポップミュージックという対話のための弛まぬ思考に、震えるしかない。
男性にとっての都合の良い彼女像と格闘する“俺の彼女”は、かつてポップスターとして宇多田ヒカルというキャラクターを演じ続け、疲弊した彼女と重なって聴こえる。《クローゼットの奥で眠るドレス/履かれる日を待つハイヒール/物語の脇役になって大分月日が経つ》と歌い出される“二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎”は、あまりにも率直な「人間活動」期間の歌だ。また、ゆったりとしたハープのリフレインに乗せて《不思議とこの場所へ来ると/あなたに会えそうな気がするの》と歌う“人魚”は、積み重ねる思考と流れ行く時間が“花束を君に”のミュージックビデオに登場した人魚を思い出させて胸を締め付ける。
なかなか口にすることのできないプライベートな痛みや苦しみ。それが対話のきっかけとなり誰かの心を救い得るという点で、優れたポップソングとはひとつの奇跡である。人間活動を経て、「率直でないことが不謹慎」(『SONGSスペシャル』での発言より)という思いを胸に、生のまま素のままの人間としてシーンに帰還した宇多田ヒカルは、以前とはまた次元の異なるポップスターへと成長を遂げた。
長年のブランク? それがどうした。考えてもみてほしい。かつて世間のほとんどの人に知られていなかった15歳の少女は、たった一曲でシーンをひっくり返したのだ。公私にわたる幾つもの運命に戸惑い立ち止まったとしても、彼女はそのひとつひとつに向き合い、論理と決断を積み重ね、新しい対話のための作品を、恐るべき精度の言葉と音楽を紡ぎ上げた。テーマはヘヴィなのに、驚くほど風通しが良い。宇多田ヒカルの才能とは、そんな論理と決断のことである。
『Fantôme』とはフランス語で、幻影・気配の意であるという。それは母か、宇多田ヒカル自身の姿か。いずれにしても、その強烈な存在感が如何なるものか、答えはすぐに明らかになるはずだ。(小池宏和)