もしポップミュージックの根源的な意義がコミュニケーションであるとするならば――つまり、その楽曲に触れることで表現者/受け手の両方にとって「自分」と「他者」の垣根が無効化され、「自分」に変化がもたらされるようなマジックにあるとするならば、米津玄師の4thアルバムとなる今作『BOOTLEG』はまさしくその究極形である。
映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』主題歌として提供されたDAOKOとのデュエット曲“打上花火”のセルフカバーや“ナンバーナイン”、“orion”、“ピースサイン”といったタイアップ起点の楽曲はもちろんのこと、「マジカルミライ2017」テーマソングとしてハチ名義で作られた初音ミク曲“砂の惑星”(セルフカバー)、さらに菅田将暉を迎えた“灰色と青”、池田エライザが参加した“fogbound”……といった数々の「共演」によって、これまでの「米津玄師の表現世界」的なストイシズムとは別種の「米津玄師という名の社会」とでも言うべき開放感を獲得しているのも、その大きな要因である。
が、そんな今作の枠組みが生まれたのは他でもない、音楽というアートを「自分という名の金字塔を築き上げる手段」ではなく、「自分は音楽によってどんな領域まで行けるのか」、「自分の楽曲はどれだけ離れた人の心にまで届くことができるか」を探求する冒険活劇そのものとして再定義した、米津自身の批評精神におけるアティテュードの地殻変動によるところが大きいのだろう。
《ここいらでひとつ踊ってみようぜ 夜が明けるまで転がっていこうぜ/聞こえてんなら声出していこうぜ》(“LOSER”)
《遠くからあなたに出会うため/生まれてきたんだぜ/道草もせず 一本の道を踏みしめて》(“かいじゅうのマーチ”)
《あなたこそが地獄の始まりだと/思わなければ説明がつかない/心根だけじゃ上手く鍵が刺さらない/愛し合いたい 意味になりたい》(“Moonlight”)
「自分」の価値観を揺るぎなく規定するためではなく、むしろ自分自身をも俯瞰し客観視し、己の価値観にあらゆる方面から揺さぶりをかけることによって、逆説的に「自分」の在り方を描き上げていく……そんな挑戦精神が、ハチ時代からのボカロP的な音の筆致から、海外シンガーソングライターとの同時代性を感じさせる音像まで、幅広いサウンドスケープをも実現させるに至っている。
そして――米津が今作を『BOOTLEG』(海賊盤)と名付けた意図も、1曲ごとにまったく異なる色彩を放つ14の楽曲から浮かび上がってくる。
「自分」の在り方なんて、自分自身が決めたってしょうがない。それこそどこかの誰かが海賊盤を密売&流通することによって、その音楽を作った表現者当人の評価までもが勝手に決定されかねないのと同じように、「他者」の視線と感情の集合体こそが「自分」というものの正体であり、今作に収められたのはその判断材料にすぎない――という恐ろしいほどにクールな覚醒感に満ちた価値観が、その隅々にまで通底している。
《どれだけ背丈が変わろうとも/変わらない何かがありますように/くだらない面影に励まされ/今も歌う今も歌う今も歌う》(“灰色と青”)
時代が移ろっても俺の心は変わらない、とは今作の米津は決して歌わない。ただ、前作『Bremen』までの作品を通して獲得した「《変わらない何か》がきっとあるはずだ」という手応えを抱きながら、「自分」自身を次々に異境へと放り込んでみせた。それによって、米津玄師という表現世界が無限の広がりを持つに至った――今作の革新的なマジックの理由はそういうことだと思う。(高橋智樹)