今週の一枚 アーケイド・ファイア『エヴリシング・ナウ』

今週の一枚 アーケイド・ファイア『エヴリシング・ナウ』

アーケイド・ファイア
『エヴリシング・ナウ』
7月28日発売

アーケイド・ファイアはこのニュー・アルバム『エヴリシング・ナウ』のリリースを前に、いくつかのユニークなプロモーションを行っていた。たとえばシリアル広告を模したキッチュなキャンペーンを繰り広げ、新作リリース・パーティーのドレスコードを「ヒップでトレンディー」と指定した。過剰な文字情報が映像を邪魔して非常に鬱陶しい、”Creature Comfort”の「公式の公式ビデオ」なる映像も公開している。

極めつけが、バンド自ら本作の「フェイク・レビュー」をでっち上げたことだろう。米有名音楽サイト「Stereogum」をまんま模倣した「Stereoyum」なるフェイク・サイトをご丁寧にも立ち上げ、そこで「早すぎるレビュー」と称したどこよりも早い架空のレビューを公開してしまったのだ。

サイド・バーやバナー広告まで作り込んでいるアーケイド・ファイア作のフェイク・サイトの『エヴリシング・ナウ』のフェイク・レビューはこちらから。


これらの彼ららしくない事前プロモの数々は、すべて『エヴリシング・ナウ』というアルバムのテーマに直結した、恣意的な「らしくなさ」であったことが本作を聴けば理解できるはずだ。何故なら、『エヴリシング・ナウ』のテーマは「インターネット時代の情報過多と、それが生み出す心の穴」とでも定義すべきものだからだ。

「僕の聴いてきた全ての曲が同時に鳴っている/馬鹿げている(Every song that I’ve ever heard is playing at the same time / It’s absurd)」、「僕の心の中は僕が始めるつもりがないもので一杯にされている(Every inch of space in my heart is filled with something I’ll never start)」と歌われるタイトル・トラックの“Everything Now”が象徴しているように、可能な限り迅速かつ簡便に、あらゆる選択肢と物質を得ることが善だとされる今、常に「すべてを、今(Everything Now)」という強迫観念に晒され続けている私たちが本作の前提になっているのだ。


“Everything Now”はストリーミングが大前提になって久しい音楽業界への批判とも取れるし、「神様、僕を有名にしてください/できないならせめて痛みをなくして(God, make me famous / If you can’t, just make it painless)」と歌われる“Creature Comfort”は、セレブリティとSNS中毒のキッズの叫びのようなナンバーだ。「毎晩生きる証を探しているけれど見つからない(Looking for signs of life/Looking for signs every night/But there's no signs of life)と歌われる“Signs of Life”は、物質的享楽の中で満たされない空疎を描いている。

何が本当で何が嘘か。本当に必要なものは何か。そのジャッジは、情報過多と圧倒的なスピードの中でどんどん後回しにされていく。そんな時代性に警鐘を鳴らすメッセージ・アルバムであり、コンセプト・アルバムであるのが、『エヴリシング・ナウ』なのだ。

アーケイド・ファイアが本作で過剰なほどポップに聞こえるエレクトロ、ディスコ・サウンドに舵を切ったのは、上記のような状態、風景、問題を描くためにそれがどうしても必要なリアリティだったからだろう。ABBAを壮大な叙事詩に乗せたような“Everything Now”、ブロンディからLCDサウンドシステムまで連想させるディスコ・パンク“Signs of Life”、ウィンとレジーヌの掛け合いも含め、楽曲の骨格だけで捉えれば『ザ・サバーブス』時代のアーケイド・ファイアが蘇ってくるドラマティックなアート・ロックなのだが、それを大仰にブーストするシンセで敢えてコーティングした”Creature Comfort”や、デヴィッド・ボウイを彷彿のエレクトロ・ファンク“Electric Blue”と、70年代のディスコから80年代のニューウェイヴやエレポップ、フレンチ・ハウスや00年代以降の現行のエレクトロ・ポップまで、本作にはあらゆる種類のエレクトロ・サウンドが躍っている。


また、ダブをカリビアン調に軽妙に仕上げた“Peter Pan”や、ジャマイカン・レゲエへのオマージュ“Chemistry”と、前作『リフレクター』からリズム感覚と肉体性を受け継いだナンバーもある。しかしそこには大きな違いがあって、それは『リフレクター』がアルバム・トータルで連続性を持ち、楽曲ごとの評価がしづらい作品だったのに対し、『エヴリシング・ナウ』の楽曲はどれも独立したアンセムとして聴くことができることだ。コンセプト・アルバムでありながらシングル・ヒット・コンピのような楽曲が揃った本作は、まさに「今はそういう時代なのだ」ということを示している。


もうひとつ、『エヴリシング・ナウ』でユニークなのは二面性、ということになると思う。たとえば、やかましいポスト・パンク調とアコースティックなカントリー調という、両極端な2バージョンが連続して収録されている“Infinite Content”のように。ダフト・パンクのトーマ・バンガルテルとポーティスヘッドのジェフ・バーロウという、対照的な才能をプロデューサー、コントリビューターとして迎えたように。そして、前半の露悪的なまでのヘドニズムの描写、煌びやかなポップネスから一転して、愛を、人生を、すべてを見失って彷徨う男の歌“We Don't Deserve Love”でクライマックスを迎えるように。

時代性を俯瞰したアイロニカルな描写と批評としてのポップでは終わらない、こうしたエモーショナルな個の帰結を迎える点で私は『エヴリシング・ナウ』を評価したいし、それこそがアーケイド・ファイアを信頼して止まない何よりの理由なのだ。(粉川しの)
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