今週の一枚 ビヨンセ『レモネード』
2016.05.02 11:45
ビヨンセ
『レモネード』
今年のNFLスーパーボウル・ハーフタイム・ショーで新曲"Formation"のパフォーマンスが一部披露され、同時にこの曲のヴィデオが公開された時に、このアルバムの趣旨とメッセージがどういうものになるのかわからないわけではなかった。それは今も隠然とした形でなにかに抑圧されていく女子が女子としてその抑圧をはねのけていく体制(フォーメイション)を呼びかけていく、メッセージ・ソングとなっていて、この曲をプロ・アメリカン・フットボールの年度最終戦で披露していくビヨンセのその意気込みもまたすごいといわざるをえなかった。なぜかというと、アメリカン・フットボールはアメリカのプロ・アスリートのフィジカルと頭脳の粋を結晶化させたようなスポーツ競技で、その競技の年度決定戦において女子としての生き方の「フォーメイション」をひとつの闘争として提示することは、まさにスーパーボウルが前提している男社会としての在り方を根底から問い直すものだったからだ。しかし、この日のハーフタイム・ショーのメイン・アクトはコールドプレイであり、ビヨンセのこのパフォーマンスはあくまでもその客演としての扱いだったため、特に問題になることもなく、ただその不穏さが観る者の心の片隅に残っただけだった。ある意味で、今回の新作『レモネード』の狼煙としてはあまりにも完璧な展開だったといわざるをえない。
そして、突如タイダルとアイチューンズでリリースされたビヨンセのこの新作『レモネード』は蓋を開けてみれば、アメリカのエンタテイメイント業界に君臨するジェイ・Zがファースト・レディたるビヨンセに対して不義を働いたというその過程で、ビヨンセが潜った心の葛藤を綴ったものになっているのである。少なくともアメリカのブラック・ミュージック業界においてこのふたりはオバマ大統領とミッシェル夫人に匹敵する存在になるので、これはただごとではないのだ。しかし、ビヨンセはこの経験を徹底的に個人として味わい尽くし、その過程でブルースやソウルのなんたるかをすべて検証してみせることで、誰にも援用されるような普遍的な心境として吐露していくところまで突き詰めているわけで、これはもう同様にアメリカ南部の社会を描出していくことでひとつの普遍性を導き出していったウィリアム・フォークナーの小説群に匹敵する偉業としかいいようがない。
今回、ビヨンセが向かったのは自身のルーツとなるアメリカの南部とその風土である。それは今回のアルバムのサウンドがどこまでもソウル的であるのと同時に、特にビヨンセがこのアルバムをテーマに製作した映像アルバム(アルバムに収録)に顕著に表れているように思う。しかし、ビヨンセが南部、そして女子としての自立性を楽曲のモチーフとして歌い込んだのはなにもこれが初めてのことではないし、ある意味でデスティニーズ・チャイルド時代からそうしたことを訴えてきたといっても過言ではないだろう。ただ、ビヨンセが意識的に自身の南部としてのルーツと、女子としていかに男を頼らずに生きるかというテーマを明確に打ち出したのはセカンド・ソロ『B’DAY』においてで、この傑作でビヨンセは「あなたの代替が利かないなんていう勘違いはしないでね」と男に諭す名曲にして自身のアンセムともなった"Irreplaceable"を生みだすことにもなったのだ。
そうした意味で今回の作品のテーマはある意味で『B’DAY』のテーマの再来ともいえなくもないように思えるものだった。しかし、『B’DAY』で訴えられたさまざまなテーマがあくまでも、ビヨンセによって意識的に綴られたものであったのに対して、今回の楽曲のテーマになっているものはパートナーに不実を働かれて、その後、自分は女としてどう生きたらいいのかという具体的な経験則なのだ。ややもすれば自分から泣き寝入りしてしまいがちなこうした状況をいかにはねのけるかという普遍的な答えをぶつけてきているのが、この作品であって、タイトル『レモネード』もジェイ・Zの祖母の逸話を引用したものなのである。わたしはレモンを人から貰ったら、いつもそれをレモネードにして人に提供してきましたという人生訓がこのアルバムのタイトルにして、テーマでもあるのだ。つまり、このアルバムはパートナーに心を今も寄せているのに裏切られてしまったビヨンセの心の痛みを訴えるブルースでもあるのだが、女として生き方を探って決して自分から折れてはいけないという哲学を訴えるソウルでもあるし、最終的に導き出されるモットーや哲学が、不実を働いた夫の祖母の意思と共鳴してしまうところが問題の根深さを物語るものであるのだ。しかし、こうした問題をここまでメジャーな作品として問いかけ、その先鞭をスーパーボウルでつけてきたことについて考える時、この人のヴィジョンのスケールの大きさにあらためて感銘を受けてしまうし、個人的には『B’DAY』の実体験盤ともいえるこの作品を形にしたビヨンセに、これまで以上にただものならぬ表現者としての業の深さを知らされたような気がして、とても感動した。(高見展)