彼女たちはこれまで、自ら描いた「ねごと」像と闘い続けてきた。ポップでいなければ、ちょっとくらいひねくれていなければ、もっともっと突き詰めなければ、と。インタヴューで何度も語っているように、その闘いは苦しいものだった。でも、葛藤の中で4人は気づく。「ねごと」とは立ち向かう存在ではなく、なるものなのだ。
本作にいくつも見られる「解放」と、それでも滲む「ねごとらしさ」はその証明だ。例えば“黄昏のラプソディ”や“透明な魚”のようなエッジーなトラック。“コーラルブルー”の中にある《永遠》めいたもの。“Time machine”で歌われる《明日》の存在。これまでなら「ねごとらしくない」と弾いていてもおかしくないような要素も、自分たちが鳴らせば「ねごと」になる。そういう自信が本作には見える。
彼女たちにとってのヴィジョン=理想の「ねごと」とは、わざわざ描き出すものではなく、自らの内側にあったのだ。それに気づいた4人の姿は、朝焼けに照らされたみたいに眩しくて、なんだか涙が零れそうだ。(安田季那子)