昨日、今日のback number、横浜アリーナ公演にいろいろあってどうしても行けなかった。
ということもあって、この二日間、隙を見てはback numberを聴いている。
すると、「なんで行けないんだよぉ」というちょっと自虐的で粘着質な気持ちになっているからなんだろう。
あらためて清水依与吏の声、というか、あの執念のような強い何かが五臓六腑に染みてくることがよくわかる。
清水依与吏。
客観的に見て本当に素晴らしいソングライターだ。
と同時に、とても清水依与吏なソングライターである。
そんなの当たり前ですか?
まあね。
ソングライターっていうのはそういうものなのかもしれない。
でも、清水ほど、こんなに清水依与吏を、つまり自分のあらゆる部分を丸出しにしているソングライターはそうはいないと思う。
綺麗な部分も汚い部分も、あるいは汚くてある意味美しい部分も本当に丸出しだと思う。
潔い。
彼の曲は清水依与吏のすべてだ。
とはいえ、彼が作っているのは「ポップソング」である。
だから、丸出しとはいえ、きちんと不特定多数の人が聴きやすい、ポピュラーで普遍的なものになっている。
それを可能にしているものは技術である。
清水依与吏が持っているそのポップ職人的な技術は本当にすごい。
だから、中身がどんなメッセージだったとしても、彼が作るメロディ、歌はきっとそれなりの支持を獲得していたはずだ。
ただ、やはり大事なのは、彼が優秀なポップ職人である、ということではなく、清水依与吏という個人の心を描くのに必要な技術と精神力を図抜けたレベルで持っている、いわば「清水依与吏職人」であった、ということである。
その技術と精神力を別の言い方で言い換えてみる。
エグいことも楽しいことも悲しいことも何かをぶん殴りたくなるようなこともあるいは自分をぶん殴りたくなるようなことも、要するに自分の心の中で巻き起こっている感情的事案のすべてに向き合い、「なんでやねん」「なんで俺はダメなんだ」「何がダメなんだよ」と、「自分」という一人称から逃げることなく、延々と考え抜くことができる力。
それを、個人的粘着性、と名づけてみよう。
彼はきっと、音楽家になろうと思って、その個人的粘着性を身につけたわけではないと思う。
むしろ、その個人的粘着性を持った人間として生まれてしまったから、あるいは人生のどこかのタイミングでその粘着性を身につけてしまったから、音楽家になるしかなかったのだと思う。
彼の歌には、そういう不可避的で宿命的な、だからこそものすごく哀しく振り切れたエネルギーがある。
清水依与吏の個人的粘着性は今この音楽シーンを見渡してみても群を抜いて粘着的である。
僕は彼の歌が大好きだ。
そして、彼の歌が大好きだ、ということは清水依与吏を受け入れている、ということだ。
清水の歌は清水のすべてだからである。
そして、それはつまり、清水の個人的かつ粘着的な歌に感情移入してしまう「清水依与吏な俺」、あるいは「俺の中の清水依与吏な部分」を受け入れ、肯定するということでもある。
なんだか気持ち悪いが、それがback numberのポップなのだ。
要するに、彼は彼の粘着的な思いを歌うことで、僕たちの清水依与吏な部分を代弁している。
そう、清水は清水のプロであることによって、僕たちの中の清水を呼び起こし、肩を組み、一緒に泣いたり、酒を飲んだり、くだを巻いたりする。
「うわ、言ってくれたわあ」
「ものすごく分かるわ、その気持ち」
「中2のとき、隣に座った●●さん、かわいかったよな」
「結局地元のヤンキーと結婚しちゃったけど」
「ていうか、俺告白してたら付き合ってくれたのかな」
「いや、そんなはずないよな。だって、俺、喧嘩も弱いし、冴えないし……」
「でも、今でもたまにあの子のこと、夢見ちゃったりするんだよな……」
「来年のクラス会、行ってみようかなあ……」
まあどこまで感情移入するかは人それぞれだが、清水が素晴らしいのはこの代弁力であると、僕は思う。
ただポイントは彼自身、誰かの思いを代弁しようなどとはきっとおそらく、少しも思っていない、ということだ。
彼が歌っているのは、「清水依与吏のこと」と「清水依与吏が好きになったあの子のこと」と、「その周辺に生まれた感情的なエトセトラ」だけである。
「不特定多数」の「僕たち」のことなど、実は一切歌っていない。
だが、何度も書いているように、彼が描き歌う「清水依与吏」というキャラクターはどういうわけか、僕たちの心と共振し、心の柔らかい部分を見事に撃ち抜いてしまう。
言い換えてみる。
清水依与吏は究極的に清水依与吏を問い詰めることで、結果的に誰しもの中にいる清水依与吏とコネクトしてしまうのだ。
それが、back numberのポップ現象のキモの部分なのだと思う。
いつも長くなってしまう。
続いて、具体的な話を書きます。