この間、友達が「未来が不安だ」と言っていた。「気持ち、わかるなあ」と思いながらも、どれだけ想像してみようと、未来のことなんてまったくわからなかった。自分にいつかやってくる最後の瞬間、それはハッピーエンドなのだろうか、それともバッドエンドなのだろうか。考えれば考えるほど、生まれたこと自体がハッピーなことのようにも、バッドなことのようにも思えた。それに、どうせ見えないものについて考えるのなら、気が重くなるようなことじゃなく、いつか嗅いだあの人の髪の匂いを、もう1度嗅ぎたい……そんなことを思ってしまった。
周りから「可哀想な奴だ」と思われることも、「馬鹿な人間だ」と思われることも、どうでもいい。ただ、「騙されてたまるか」と思い続けていた。他人のプライドをくすぐりながら教科書を売りつけようとする連中のことは絶対に信用しなかった。俺を騙していいのは世界で俺ひとりだけ。細心の注意を払い、どこかで醒めていながら、俺は俺を騙し続けている。
マカロニえんぴつの新しいアルバムを聴いている。タイトル曲の1曲目“ハッピーエンドへの期待は”が素晴らしくいい。《「残酷だったなぁ人生は」思っていたより/いま君に会って思いきり泣いてみたい》――その眼差しに映るのは天国か地獄か、まるで死を目前に控えた者の独白のような言葉が讃美歌のように響きわたり、アルバムは幕を開ける。祝福と呪いを同時に放つようなこの1曲目が、最終曲“mother”に至るまで続く、恋と苦悩と疾走と悪ふざけに満ちた愚か者たちの物語を優しく、悲しく、抱きしめている。最後まで聴き終えたら、もう1度、“ハッピーエンドへの期待は”を聴いて終わる――そんな循環的な聴き方を、私は繰り返している。
きっと、このアルバムは今まで以上にたくさんの人に受け入れられ、聴かれるだろう。しかし、バンドは自分たちを巡る世間の状況に浮ついたり、肩ひじを張っているようには思えない。むしろ、「I need to be myself.(俺は俺でいなければいけない)」――そんな孤独で気高い境地に、今のマカロニえんぴつはいるように思える。“なんでもないよ、”で繊細に造形された、生活から零れる細やかな想いの形も、“好きだった(はずだった)“で、まるで虹の始まりのように描かれる「好き」の気持ちも、“トマソン”や“TONTTU”に見られる音楽への献身的な愛情と悪戯心も、“八月の陽炎”に刻まれた追憶と、帰路としての人生を歩む意志も――どの曲からも人間の匂いがする。機械的な「正しさ」に漂白されていくこの世界において、この『ハッピーエンドへの期待は』というアルバムは、あまりに生々しく、人間という生き物特有の臭気を発している。愚かしくも愛おしい、人間の臭気を。
“なんでもないよ、”は「、(読点)」で、“僕らが強く。”は「。(句点)」。こうした細部にも、きっとバンドのメッセージが込められているのだろう。《僕が僕を愛し抜くこと/なあ、まだ信じてもいいか?》(“生きるをする”)と、時にエゴイスティックなほどのエネルギーで「生」を「愛」を求めたかと思いきや、同時に《笑ってたいんじゃなくてね、笑い合ってたいのだ》(“僕らが強く。”)と、他者と「分かち合うこと」を望む。アルバムを通して右往左往しながら、バンドは、「生きている」――その実感を手繰り寄せていく。
かつて“ヤングアダルト”で《ハロー、絶望/こんなはずじゃなかったかい?》と問いかけたはっとりは、“ワルツのレター”で、こう聴き手に問う――《愛の歌はきこえてるかい?空飛ぶ準備はできてるか/希望の歌が残ってないなら おれが作ってやる/闘う意味は教わらないし涙の価値は決められない/大丈夫、きっと大丈夫/誰も丈夫じゃないからさ》。希望なんてどこにあるのかわからないし、「闘え」と言われたところで闘う意味も、闘う相手すらよくわからない。幻想にパンチを打って、それで金になればいいのかもしれないが、そんなことより、みんなもう疲れている。それでも、はっとりは《大丈夫》と歌う。希望の歌は俺が作ってやる、と。欠落した人間の匂いのする、愛の歌が聴こえる。この歌はたしかに、「希望の歌」と呼び得る。(天野史彬)
(『ROCKIN'ON JAPAN』2022年2月号より)
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