──初のフルアルバム『LAPLACEL』ができあがった今、多次元制御機構よだかというソロプロジェクトを林さんはどう認識されていますか?最初は全部自分でコントロールしたくてパソコン1台で多次元制御機構よだかを始めたんですけど、だんだんと人間味が出てきたなあという感じがしてますね。パソコン1台で完結するかたちじゃなくて、レコーディングではスタジオで楽器を鳴らして録っているということもあるんですけど、作品をゆっくり重ねていった今、フィジカルな部分が出てきたなあという感じがしてます。──よだかで最初にリリースされた“夜間飛行”にも、轟音のイントロやエモーショナルなギターリフといったバンドとしての身体性が溢れていたと思うんですけど、この時はまだデスクトップミュージックとしてひとりで完結するものを作りたいという意識があったんですか?DTM的なものをやりたかったというよりは、好きだったバンドの身体性を自分のパソコンで再現する、というか。実写映画が好きな人が作ったアニメ映画みたいな、自分が好きなバンドの身体性をパソコンの上でデフォルメして、創世主的な気分を楽しむようなところが出発点でした。そういうすごく閉じたところから始まってたんですけど、ライブを重ねたりいろんな曲を作っていったりするにつれて、アニメから実写にというか、二次元から三次元になっていってるなあという感じがしてて。このアルバムを作りながら、多次元制御機構よだかが改めてなんなのかが自分の中で浮き彫りになった感じがします。『LAPLACEL』は、「僕という人間であること」というか「僕という人間がやっていること」がすごく残った
──その浮き彫りになった部分を言語化すると?「僕という人間であること」というか「僕という人間がやっていること」がすごく残ったなあと思ってて。フィッシュライフをやめて、多次元制御機構よだかをやるんだぞ!と心機一転した時に、自分の中で意図的に変えた部分というか新しくした部分が結構あるんですけど、とは言え、同じ人がやってるんだなあというのを自分でもすごく感じます。心機一転してるわけなので、雑に言うと、不要なパーツとして捨てた部分もあったりするんですよ。でも、結局同じものがあって、しかもそれがわりと大事なんだなというのが最近浮き彫りになってきたんです。それを言語化すると、音的にも言葉的にも取捨選択の基準は変わってないんだなという感じがちょっとするんですよね。
──その価値観は、“コズミック・キャデラック”の《全てが上手くいかないと/いじける日だって大事なパーツさ》のようにアルバムのメッセージとして通底していますが、サウンド面においてもそのような気づきがあったんですね。その意識は、曲作りをしていく中で変わっていったんですか?結果的にそうなっちゃってるというか、1曲単位だとそんなに感じないんですけど、いざ12曲並べてみると、同じ人が半透明で腕組んでるなっていうのが見えて(笑)。このアルバムの中で順番的に早くできていたのがタイアップ曲の“スターダスト・エウレカ”(TVアニメ『また殺されてしまったのですね、探偵様』オープニングテーマ)なんですけど、初めてのアニメタイアップなのでいつもと目指すところが違って。その中でも、多次元制御機構よだかが出す曲としても高めたくて、自分のプロジェクトとしてのエゴとバランスを取った時に、いつもの「多次元制御機構よだかをやるぞー」っていう時に使わない筋肉をめっちゃ使ったんですよね。でもその筋肉って昔使ってた筋肉だったよなって。それは、ただ自分でよだかをやっていってるだけでは使わないような音だったり歌詞だったりで、昔の自分っぽいなって思ったんです。曲を通して伝えたい感動の種類が田淵さんとは近いのかなって。アルバムを通して聴いて、「田淵智也感あるな」と思った
それは、よだかを始める時にやっぱり違うことをやりたいと思って、今思えば必要以上に断ち切ってた部分でもあって。でも、“スターダスト・エウレカ”を作りながら、新しいほうに向かおうとしているのに昔の部分に届くみたいな感じがあって、その感覚が不思議だったんです。逆方向に向かって走り出して、遠ざかっていたはずの自分になぜかもう1回出会い直すことになったことが、このアルバムを作るうえですごく大事な出来事でした。──それがこのアルバムのすべてだなと。多次元制御機構よだかは「ないタイムマシン」を意味しているとのことですけど、よだかはすごく不思議なタイムマシンで、未来に向かって進もうとしても、気がついたら過去に戻ってきてるというか。そうそう。そうなんですよ。──サウンド面でいうと、今作もサウンドプロデュースは田淵智也さんが担われていますけど、田淵さんのサウンドプロデュースを経て楽曲が変わった部分や、制作において気づいたことはありましたか?田淵さんは「いやあ今回もいいよー」ってずっと言ってくれて、めちゃめちゃ褒めちぎってくれて(笑)。シンプルに先輩・後輩として仲がよくて、すごくかわいがってもらってるのもあるんですけど、プロデュースという文字面から想像されるようなばっさりとしたテコ入れみたいなことはほとんどないです。ユニゾンだったらというか、田淵さんが舵を取って決めるんだったらたぶんこの感じにはしないだろうなみたいなアプローチも、僕が決定して出してます。田淵さんは、出会った時は「田淵智也!」として出会ってるんですけど(笑)、よだかをやっていく中でめっちゃ長い時間一緒にいるので、田淵さんというひとりの人間としてというか、ちょっと歳の離れた兄貴分みたいな感じでもあるんです。でもやっぱりたまに引き戻されるんですよね、「田淵智也だ、この人!」って(笑)。そういった中で、田淵さんが田淵智也であるように、林直大が林直大であるというのはどういうことなのかというのを考えていました。おこがましいですが、曲を通して伝えたい感動の種類が田淵さんとは近いのかなという感じがしていて。アルバムができたあとに12曲を通して聴いてみて、メロディの癖だったり、日本の音楽が好きでポップなものが好きだったりするというところでニュアンスが似つつも、それ以上に「田淵智也感あるな」って思ったんですよね。
──まず、よだかの出発点になった“夜間飛行”から話を聞きたいんですけど、フィッシュライフの“未来世紀天王寺II”で《僕らは本当はわかっていた/逃げる場所なんてどこにも無いこと》と言っていた林さんが、“夜間飛行”では《きっと僕らは/何処へでも行ける》と歌っていて。《君にあげるよ/だから泣かないで》という歌詞も含めて、他者への視点が曲に織り込まれていると思いました。この曲は、いわゆる気づいたらできてた系の曲なんですけど、曲ができるまでは結構悩んでて、ああでもない、こうでもないってやってたんですよ。で、“夜間飛行”ができた時にすごく納得したんですよね。「あ、これがやりたかったし、ここからまた始められるな」って。で、言ってもらったように、他者への視線がこの曲を作ってるというか、他者への視線を持つことの救いみたいなところから始まってるのかもしれないなとも思いました。──自分に対して向いていた矢印が、他者に向いたというのがよだかの始まりだったんですかね。そうだったんだと思います。フィッシュライフの時は、若くしてド派手に始まってドタバタと活動してたんで、そりゃ自分に矢印が向くよねというのもありつつ、そこへの限界で終わったというのもあると思っていて。だから、フィッシュライフを解散したあと、音楽はやりたいと思った時に──曲を作った時は思ってなかったんですけど──他者への視線を持つことに救いを見出したんだなって。多次元制御機構よだかのプロフィールにある「ないタイムマシン。原動力は“LOVE”。」にもまさに符合するなあという。──メジャーデビューEP『ODYSSEY』の表題曲であり、アルバムの1曲目を飾る“オデッセイ”もまさに「原動力は“LOVE”」を体現してるなと。この曲で僕が好きなのが《きっと想像していた通りの/自分になんてなれやしないこと/許せないままの僕を/赦してやりたいんだ》というラインなんですけど、他者に視線を向けると同時に、よだかを通して過去の自分も肯定できるようになっていってるのかなと思ったんです。まさしくそうだと思います。過去の自分を肯定してあげられるように生きていたいというのは日常的な感覚としてあって。逆に、今これをやっちゃうと未来でこの段階の自分を肯定できないみたいな視点もあるんです。とは言え、人間ってミスるじゃないですか。過去の自分に対して、自分として接すると厳しくしちゃうので、「いやいや、そんなに気にしなくても」って他者に接するようにする。あと、他者との間に「ままならんなー」みたいなことがあった時は、昔の自分に接するようにする──そうやって、1個考える間とか許すというワンクッションを挟みたい、みたいなのはよだかと同時に育ててきた感覚のような気がします。自分が表現したい世界の消失点を作るためというか、パースを出すためにも、現実とロマンは常にどっちもないといけない
──そういうワンクッションを挟むという感覚は歌詞にも通じていると思っていて。よだかの曲にはSF的なモチーフがたくさん出てきますが、そういった物語的な言葉を通して言えることがあるんでしょうか?「あってくれたら嬉しいけど、この世にないもの」の象徴として、僕の中でSF的なものがあるんです。そういったSF的なものと、「どう考えてもないっぽいけど実はある希望」を同時に歌詞に存在させてあげると、ごっちゃになって、どっちもあるように見えるなと思っていて(笑)。──ごっちゃにする感覚でいうと、よだかの歌詞にはSF的なワードがたくさん出てきながらも、同時に都市のリアルな生活者としての視点も盛り込まれてますよね。宇宙みたいな未知とロマンに溢れたものと同時に、“デスクトップ”の《バナー広告》とか、“DRAGON STOMACH”の《残高不足に立ち止まる》みたいな生々しいワードが両立していて。それは、このアルバムを作りながらはっきりしていったところなんですけど、どっちもないと、どっちも説得力がないなと思っていて。どっちにも説得力を持たせるために、現実もロマンも大事にしているんですよね。12曲目の“コズミック・キャデラック”の《重力のない場所で飛び立っても/溺れてるのと同じだから》というのが、僕的にはこのアルバムの目玉だと思ってて。ちょっとメタい視点ではあるんですけど、既発曲がある中でアルバム曲を作る時に、多次元制御機構よだかっぽいものであれば作れるし、アイコニックな部分を自分で焼き増しすることもできるんですけど、そういうことじゃないじゃない?と思っていて。その中で“デスクトップ”のように生活者の視点もしっかり持っていることは、実はSF的な部分と同じぐらいよだかには大事なんだよなと。自分が表現したい世界の消失点を作るためというか、パースを出すためにも、現実とロマンは常にどっちもないといけないなと思いましたね。