幼少期から歌うことが好きだった彼女は、中学のときにある映画を観たことをきっかけに音楽を志し、福岡から単身上京。2020年にミニアルバム『無垢』でデビューした後、2022年にアルバム『世存』をリリース。昨年は新山詩織、mihoro*、植田真梨恵とのコラボ曲を発表するなど、活動の幅を広げている。
上京した当初は「周りの人はみんな敵だと思っていて、暗い曲ばかり書いていた」というRan。今もネガティブな思いから曲を書き始めることが多いというが、その根底にあるのは、自らの感情と対峙する姿勢だ。決して自分をごまかさず、自身の内側にある思いをメロディや歌詞に結び付ける──その率直なスタンスこそがRanのアーティストの本質。「好き」をテーマにした新曲“予感”もまた、自分自身を受け入れ始めた彼女現在地と強くリンクしていると言っていいだろう。
インタビュー=森朋之
──Ranさんのデビューは2020年8月。5年近いキャリアがあるわけですが、今回はこれまでの軌跡をしっかりお聞きしたいと思っています。「もし自分に何も残らなかったとしても、歌が好きという気持ちを大事にしたい」と思った
はい。よろしくお願いします。
──音楽を志すきっかけの一つが中学3年のときに観た映画ということですが、その映画は『カノジョは嘘を愛しすぎてる』だそうですね。
そうなんです。お母さんと一緒に、家から20分くらいのところにあるイオンの映画館に行って。映画を観る習慣みたいなものがあまりなかったんですけど、中学のときたまたま「映画でも観たいね」ということになって。小さい頃から歌うのがめっちゃ好きだったのもあって、ちょっと観てみたかったんですよね。
──『カノ嘘』は、女子高校生が歌の才能を見出され、バンドとしてデビューするというストーリーですからね。
そうですね。大原櫻子さんの歌もすごくよくて、「こんなふうにうまくなりたい」と思って。映画自体もシンデレラストーリーみたいなところがあったし、私は何もない田舎の中学生でしたけど、「自分もこうなりたい」と憧れていたのかもしれないですね、今思うと。
──主演の大原櫻子さんもオーディションで選ばれてますからね。
それはあとから知ったんですけど、「すごいな」って思いました。「本当にバンドをやってた人なのかな?」「演技もやってたのかな」とかいろいろ調べて……。映画に出てくるバンド(MUSH&Co.)で何曲か出したんですけど、それも聴いてましたね。
──映画をきっかけに、本気で音楽をやりたいという気持ちが強まった?
はい。音楽は小さい頃から好きで。お母さんがドリカムやTUBEが好きで、車の中でずっとかけてたんですよ。そのCDをこっそり持ち出して、部屋のコンポとかCDウォークマンで聴いたりしてました。あとは友達とカラオケに行ったり。人に「上手いね」とか言われたことはなかったんですけど(笑)、もっとうまくなりたい、もっと上手に歌いたいと思って、ボーカルスクールに通わせてもらいました。
──その時点でプロになりたいという気持ちもあったんですか?
全然なかったというか、何も考えてなかったです(笑)。自分で言うのも恥ずかしいんですけど、勉強はそれなりにやっていて、塾とかも通ってて。高校も進学校で、周りのみんなは公務員や大学を目指してたんですよ。そんな感じだったので、歌でデビューとかは考えられなくて。高校3年の初めまではそんな感じで、オーディションとかに応募しつつ、私も地元の大学とかに行くんだろうなと思っていて。転機になったのは、高3の夏休みですね。高校で勉強合宿があって、山の中で1週間くらいひたすら勉強するんですけど、その日程がある事務所のオーディションと被ってたんです。そのオーディションも10日間くらいの合宿形式だったんですけど、いろいろ考えて、最初の2日だけ勉強合宿に行って、そのあとオーディションに参加したんですよ。歌を歌える場所に行けると思ったらすごくワクワクしたし、勉強しながら「早くオーディションのほうに行きたい」とずっと思っていて。そのときに「もしオーディションに落ちて、自分に何も残らなかったとしても、歌が好きという気持ちを大事にしたい」と思ったんですよね。それはすごく大きい転機でした。
──勉強して大学に行くより、好きな音楽をやろうと?
あまり深く考えてなかったんですけど、「大学にはいつでも行けるけど、歌は今しかできない」って。そういうところは楽観的なんですよね(笑)。で、オーディション合宿が終わったあと、家族に話して。今の事務所からも声がかかっていたし、「受験しないで、東京に行って音楽をやりたいと思う」って言いました。最初は反対されましたね。母よりもおばあちゃんが「せっかく高校に行ったのに」みたいな感じですごく反対していた記憶があります。
──でも、意志は曲げず。
「でも、私の人生だしな」って。言い方はよくないですけど、反対されてもまったく響かなかったんですよ。「それはおばあちゃんの考えだよね。私には別の考えがあるんだ」って。さっきも言いましたけど、歌を歌う、音楽をやるということにワクワクしていたし、とにかくやろうと決めていたので。……と言っても、その時点では何もなかったんですけどね。オリジナル曲も2~3曲くらいしかなかったし。それでも「東京に行って、いろんな方と話して、いろいろ教えてもらって、もっと曲を書きたい」という気持ちのほうが強かったです。
──自分に可能性を感じていたというか、「私ならやれる」という確信もあった?
いや、そんなのはなかったです(笑)。ただ、「こうなりたい」「ああなりたい」という理想だけがあって。ぼんやりしてるんですけど、すごく大きかったんですよ、それが。
──具体的なイメージはないけど、とにかくすごいことが起きるはず!っていう(笑)。
そうですね(笑)。本当に何もできなかったし、ギターの弦の替え方さえ知らなかったんですけどね。ギターは高校生の頃から触っていたんですけど、誰かに教えてもらったこともないし、「え、ギターって弦を替えるんだ?」っていう(笑)。「1ヶ月くらいで替えなくちゃダメだよ」「どこで替えるんですか?」「自分で替えるんだよ!」みたいな話をして。
──楽器屋さんで替えると思ったんでしょうね(笑)。曲作りに関しても、東京に来て1から始めたということですか?
初めて書いたのは高校3年のときですね。それも曲と呼べるのかどうかわからないんですけど、ボイスメモにワンコーラスとかサビだけとか入れていて。
──どんなことを歌ってたんですか?
恋愛のことだったり。あと、家庭環境があんまりよくなかったんですよ。今はもっとコミュニケーションを取りたいと思っているし、お母さんにもできるだけLINEしてるんですけど、当時は家にいるのがすごいストレスで。「どっかに行きたい」みたいな気持ちが大きかったんです。そういう不満みたいなものも歌ったりしてましたね。曲にすることで何かがよくなることはまったくなくて、逆にふさぎ込んでしまったり。誰にも会いたくない、ここにいたくないという気持ちばっかりでした。
──そういう状態だと、「ここを離れて、音楽のために東京に行く」というのは大きな救いですよね。音楽を聴いて気持ちがラクになることはあったんですか?
ありましたね。今もそうですけど、阿部真央さんが好きで。中学のとき友達に「阿部真央って知ってる?」って教えてもらって、聴いてみたらめっちゃかっこよかったんですよね。阿部真央さんの曲は感情の幅が広くて、いろんな感情に寄り添ってくれる歌を歌ってくれていて。「どの気持ちにも合う曲がある」みたいな感じで、ずっと聴いてました。
──阿部真央さんはRanさんと同じく九州出身だから、親近感もあったのかも。
阿部真央さんが大分出身だって知ったのは高校のときなんですけど、確かに「近いな」って思いました(笑)。私も頑張ろうって。
──上京してからデビューまでの日々はどうでした?みんな敵だと思ってたんですよ。誰にも心を開いてなかったし、「ケッ!」みたいな気持ちで曲を作っていて
最初の1~2年はずっと会社のスタジオにいて、曲を作ったり、プリプロをやってましたね。あとはバイトして、寝て。1週間ずっとその繰り返しで、その頃がいちばんルーティーンでした。自分的には結構しんどかったし、インプットが全然できてなかったんですよ。東京に来たばかりだったし、誰かの音楽を聴きに行くこともなくて、自分に何かを取り入れることがなくて。本はかなり読んでいたんですけどね。
──村上春樹、島本理生などが好きなんですよね。
はい。その頃の読書は依存というか、嫌なことを忘れるために読んでいたところがあって。読みたいから読むのではなくて、作業みたいになってた気もしますね。すごい量を読んでいたので、いろいろ影響を受けていると思います。
──せっかく音楽をやるために東京に来たのに、曲作りとバイトの日々ですからね。目の前のことでいっぱいいっぱいで、先の展望がないというか。
ですね。いちばんしんどかったのは、ブッキングのライブに出ても、ほとんど誰も来てくれなかったんですよ。私の名前でチケットを取ってくれた人がいても、物販には誰も来なかったり。そういうときはどうしても「自分の曲、誰かに届いてるのかな」って不安になってしまって。今思い返しても、そのときがいちばんきつかったです。
──しかもデビューのタイミングがコロナ禍ですからね。
ライブもまったくできなかったですからね。2021年にテレビ神奈川の『関内デビル』という番組に出演させてもらって、そのことをきっかけに少しずついろんな人がライブに来てくれるようになって。それまでは本当にきつかったですね。
──そうなると曲作りも……。
上京して1~2年はくらいは暗い曲ばっかり書いてました。
──そうなりますよね。
はい(笑)。なんて言うか、みんな敵だと思ってたんですよ。誰にも心を開いてなかったし、「ケッ!」みたいな気持ちで曲を作っていて。
──プリプロに関わっているスタッフの方も「暗いな」って思ってたのでは?
たぶん思ってたんじゃないですかね。私、スタッフの皆さんと目も合わせなかったので、「暗いよ」と言えなかったんじゃないかな。すごい気を使われていたと思います。
──心を閉じてしまっていた。
閉じてましたね。地元にいるときからそうだったんですよ。家庭環境のこともあるし、友達とのいざこざもあって、人と関わるのがめんどいなって。上京してからも中二病が延長して、人と関わることもなかったし、しかもコロナ禍じゃないですか。価値観が変わるような出会いもなくて、私はかなり自己中だったんで、とにかく「嫌な思いをしたくない」「私はこういう感じだから」という感覚がすごく強かったんです。今はだいぶ変わったんですけどね。
──その状況が変化するタイミングがあった?
2022年に『世存』というアルバムを出したんですけど、そのあとくらいに「これで大丈夫なのかな?」と思い始めて。レコーディングでもずっと喋ってなかったし、コミュニケーションが全然取れてなかったんですよ。そういう状態で歌入れしていて大丈夫なの?と思ったし、自分がもっとオープンにならないと、周りもオープンに接してくれないよなって。
──制作中にコミュニケーションが取れないと、音楽に影響が出ちゃいますからね。
そうなんですよ。そのときに自分自身と改めて向き合って……変わるのが怖かったんですよね。私は不満とか不平、どうしようもなさをテーマにして曲を書いてきて。高校のときに曲を作り始めたときも「人に裏切られた」とか「誰かがこんなことを言ってた」みたいなマイナスなところから始めたんですよ。それがブレるのが嫌だったというか。
──ネガティブなことを曲にするのが自分だと。
そうそうそう。自分が書きたいテーマがブレるのも嫌だなって。(人との接し方を変えたのは)それまでとは違うことを書きたいからではなくて、そのときの苦しい感じだったり、ドヨンとした空気をなくしたいと思ったからなんです。根本は変わらないと思うんだけど、この状態は変えないとダメだなって。実際、曲の書き方もだいぶ変わってきた気がします。以前は書きたいテーマに対して「もし自分のことだったら」と置き換えて考えていたんですけど、最近はそのまま受け取って、そのときに感じたことを曲にできるようになってきたので。
──昨年は新山詩織さん(“あの日 feat.新山詩織”)、mihoro*さん(“ドリアン feat.mihoro*)、植田真梨恵さん(“Lady Frappuccino, feat.植田真梨恵”)とのコラボレーションも経験。他のシンガーソングライターと共作することで、さらにオープンになれたのでは?
すごく緊張しましたけどね。第1弾が詩織さんだったんですけど、芯をしっかり持っているところが自分と似ているかもと勝手に思っていて。そこをうまくリンクさせて曲が書ければいいなと思ってます、と最初にお伝えしました。