1月18日に術後の合併症によって他界したイーグルスのグレン・フライをドン・ヘンリーが追悼している。
イーグルスは2015年12月に傑出したパフォーミング・アーティストに生涯功労賞として贈られるケネディ・センター名誉賞を受賞することが決定していて、慣例として昨年末のガラ・パフォーマンスに出演する予定になっていたが、グレンが腸の手術を受け、療養が必要になったため、出演を一年延期することを発表していた。その後グレンの容体は悪化し、18日に関節性リウマチ、重度の潰瘍性大腸炎、肺炎などの合併症のため息を引き取った。67歳だった。
イーグルスのオフィシャル・サイトでは「言葉ではわたしたちの気持ちを言い表せませんし、グレンがわたしたちに、グレンの遺族に、音楽コミュニティーに、そして世界中の音楽ファンにもたらしたものへのわたしたちの愛や敬意を言い表すことはできません」とグレンの遺族とイーグルスのメンバー名義で発表されている。
その後、ドンは次のようにグレンを悼んでいる。
「俺には兄弟のような存在だったし、俺たちは家族のようなもんで、たいていの家族がそうであるようにちょっとうまく機能しないところもあったんだ。でも、45年前に築いた絆は、イーグルスが解散していた14年の間も、断ち切れることはなかった。俺たちは同じような夢を胸に抱いてロサンゼルスへと巡礼に赴いたふたりの青年だった。その夢とは音楽業界に足跡を残すことで、忍耐力と音楽への深い愛をもって、素晴らしいミュージシャンたちとマネージャーのアーヴィング・エイゾフと力を合わせることで、誰もが夢にも思わなかったほどに息の長い活動を続けることになった。でも、一番最初にこれをけしかけてきたのはグレンだった。グレンが火花となっていて、この計画を思いついた人物だったんだ。グレンには百科事典級のポップ・ミュージックへの知識があったし、しかも、絶対に諦めない職人的な意地みたいなものも持ち合わせていた。おかしくて、がむしゃらで、気まぐれで、やさしくて、とてつもなく才能に恵まれて、なにかに突き動かされているやつだった。グレンはなによりも、奥さんと子供たちをかけがえなく愛していた。俺たちは全員ショックを受けているし、これが信じられないし、心の底から悲しい。俺たちは2年がかりとなった『ヒストリー・オブ・ジ・イーグルス』ツアーを7月に大成功のうちに終わらせたばかりなのに、今グレンはもういなくなってしまった。俺が運命というものを本気で信じているかどうかは怪しいものだけど、でも、1970年にグレン・フライと出会ったことがその後の俺の人生を決定的に変えたことは事実としてわかっているし、やがては世界中の数百万という人たちの人生に影響を与えることにもなったんだ。これから先、グレンのいなくなった世界を生きていくのはなんか変な感じだよ。でも、これから毎日、グレンが俺の人生に関わってくれたことを感謝していくはずだ。兄弟よ、安らかにお休みください。きみはやろうと目指していたことをしっかり成し遂げたし、それもとてつもないほどまでにやり遂げたんだよ」
グレンは1948年にデトロイトで生まれ、近郊のロイヤルオークで育ち、デトロイトで作曲やバンド活動にいそしんだ後、ロサンゼルスを目指し、かの地でソングライターのJ・D・サウザーやジャクソン・ブラウンと出会った。J・D・サウザーのつてでリンダ・ロンシュタットを紹介されると、リンダのバック・バンドを務めるよう要請され、ドン・ヘンリーとともにバンドを結成。ランディ・マイズナーとバーニー・リードンを誘い、デイヴィッド・ゲフィンが新しく設立したアサイラム・レコードと契約したことからすぐにイーグルスとしての活動も始めた。
1972年の『イーグルス・ファースト』から活動は順調だったが、アルバムを経るごとにメンバーの入れ替えとカントリー・ロックからモダンなロックへの移行を進め、『呪われた夜』や『ホテル・カリフォルニア』でその極致に至ることになった。『ロング・ラン』リリース後にバンドは解散し、それぞれに活発なソロ活動を展開したが、1994年に再結成し、精力的にツアー活動を続けていた。1976年に発表されたコンピ盤『イーグルス・グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』は全世界で4000万枚を超えるセールスを誇っていて、史上もっとも売れたアルバムのひとつとなっている。