「拍手」、「ありがとう」、「最高」、「THE END」、「applause」……とにかく、あとはドイツ語でダンケとかなんかもうたくさん、手製のパネルを持ってグリフが登場。で、無造作にそのへんにほったらかす。ということは、その文字はもう客席からだだ漏れに見えているわけで、ということは、それは使われるんだな、そしてたぶんああいうときだったりこういうときだったりに使われるんだろうなということもだだ漏れ。せっかくの演出も、もう最初からぐだぐだな感じ。というか、そういうことに頓着しないということを含めて、まさしくスーパー・ファーリー・アニマルズなんだなあというオープニングでライブが始まった。
気づけばもう15年にはなるキャリアの中で、もちろんのこと音楽的な変遷を経てきてはいるものの、こうやって観てみると、このバンドが実にオーソドックスな「サイケ・フォーク」の文脈で音楽を創ってきたことがよくわかる。ある瞬間など、ほとんどティアドロップ・エクスプローズもかくやな佇まい(ティアドロップス、観たこたあないけど)。時代時代で、たとえばリミックスの方法論と共鳴したりだとか、音響的なアプローチとエンゲージしたりだとかといったことが彼等を常にモダン・ミュージックの最前線にポジショニングしてきたように見えるのだけど、当人たちにとってみれば、いつも変わらぬサイケデリックでフォーキーな世界観であって、その自然な延長にそういったものがあった、くらいの感覚なのではないか。
むしろやはり特筆すべきなのは、なぜ彼等だけがそのような特権的な場所に居続けることができたのかのほうだろう。ブリット・ポップ華やかなりし時代に登場し、海の向こうのオルタナティヴを眺めながら新世紀を迎え、怒涛のごとき音楽革命は当然ながら為されてきた。なのに、スーパー・ファーリー・アニマルズは、隠遁することなどもなくコンスタントに作品を発表しながら、「良質なブリティッシュ・ロック」を生産し続けてきた。たとえば、はるかアメリカ西海岸の同じくサイケ・フォークの雄、フレイミング・リップスを対比させてみると、その特異さが際立つ。リップスが90年代に劇的な変身を遂げ、いままたディープなサイケ宇宙に飛び込んでいる様からすると、ファーリーズのこの泰然自若ぶりというのは何なのか。
簡単に言ってしまうと、それは彼等がウェールズを本拠とし、それが英国にあっても特別な辺境としてあり、そして(重要なのはここだが)そのような場所に彼等が意識的にとどまり続けてきたことだ。ファーリーズは、いかなるシーンにもただの一度も関わることなく、山奥の炭焼き小屋よろしく丹精に音楽を仕上げてきた。その「辺境性」が、逆説的に彼等を常にシーンの前線に据え、いつの時代にも無視できないバンドとして顧慮されてきたのだ。
だから、もうこのプラカードだって、ウェイン・コインならどう演出するだろうかという物差しで見ると、グリフの動きのまあなんとも牧歌的なこと。というか、もっと言ってしまえば、ファーリーズには微塵もアイロニーがないという点においてすでに特別なのだ。もうなんか、ブリティッシュ・ロックの特産品とでも呼びたい。(宮嵜広司)