──「死にたい」ということ、「死」そのもの。そういうものが音楽に色濃く刻まれているというのは、『団地テーゼ』を聴いていてすごく感じます。1曲目のタイトルは“墓”ですが、人が死んで行き着く場所である墓から、このアルバムは始まるんですよね。それもすごく象徴的だなと思いました。“死にたいひまわり”のデモが届いた時に「これだ!」と驚愕しました。「全然死んでねえじゃん」と思った。負のエネルギーは死んでいないなって(mono)
の子 なるほど。そこは何も考えていなかった(笑)。
──先ほどおっしゃっていた「深みが増す」というのは、の子さんはどういった部分でそれを実感されていますか?
の子 言葉にするのは難しいですけど、40代になって、人生というのは切ないなあと思いますね。歌詞にも書いたことがありますけど、人生というのは、歳をとるたびに失っていく過程なんだと。悲しい話かもしれないけど、大人になること、成長することって、切ないことだと思っていて。10代、20代の頃は特に死にたいという気持ちが強かったんですけど、30代を過ぎたあたりからどんどんと減っていったんです。自分の中でちょっとずつ薄れていってるな……そういうことを感じました。でも、今を生きている限り、今を生きるしかない。今の自分を100以上出し切ってやるだけです。今回のアルバムでいちばん最近作ったのは“死にたいひまわり”なんですけど、この曲はもう、ゲロですよね。混沌としたものをすべて吐き出した感じです。40歳になっても家にいるとカオスになることはあるので、こういう曲ができると、「まだ、曲書けているな」と思います(笑)。
みさこ の子さんはちょいちょい「曲がいっぱい書けなくなるんじゃないか」とか「曲を書く時間がほしい」って言うので、不安になる時もあるんだろうな……とは思うんですけど、の子さんは忙しくても曲を書くことを周りの人は知っているから。あまり心配していないんですよ(笑)。
の子 曲は書けるんですよ。でも、表現の幅が狭くなってしまうのは嫌で。小手先だけはうまくなるかもしれないけど、自分の魂から出てくるものが減っていくんじゃないか?という恐怖に似た葛藤があります。その葛藤はこれから先もずっとあると思います。僕にとって曲作りは10代の頃から変わらなくて、世のため人のためじゃなく、自分のため、自分を救うために作るものなんです。そういう自分の芯はずっと変わらないです。でも、いつか本当に「猫がいて楽しかった」みたいな歌詞の曲しか書けなくなるかもしれない……とかも考えたりもします(笑)。まあ、最終的には楽しくて、気持ちよければそれでいいと思っています。人生、すぐ終わるんで。それに尽きます。
──monoさんもそう思われますか。
mono そうですね。年をとればとるほど、よくも悪くも楽観的になるものですから。でも、俺は“死にたいひまわり”のデモが届いた時に「これだ!」と思いましたよ。驚愕しました。「全然死んでねえじゃん」と思った。負のエネルギーは死んでいないなって、聴いた時安心しましたね。その時の子に電話したもんね?
の子 そう、電話かかってきた。
──monoさんは、の子さんから負のエネルギーの曲が届くと感じるのは、安心なんですね。
mono 僕自身もの子と同じ環境だったとは言わないけど、なかなかの日々を送ってきたんです。俺はそれを表現することができない人間だったけど、の子を見て「よく表現できるな」と思ってます。それもあって活動を一緒に続けてきたところもあるんです。なので、“死にたいひまわり”を聴いた時は「相変わらずすごいな」と思いました。歌詞も、世の中にいる若者や一般の人たちがふわっと使うような言葉を歌詞に盛り込むじゃないですか。「こういうこと言うよな」みたいな。これこそ、大島亮介(の子の本名)の曲ですよね。
──『団地テーゼ』というタイトルはどのようにつけられたんですか?汚い部分やドロドロした部分、人に見せられないような部分があるからこそ人間なんですよね。僕はそのすべてをゲロのように吐き出すのが芸術家だとずっと思っているし、それがスッキリする(笑)(の子)
の子 タイトルは、「何か降りないかな、降りないかな」と考えていたところ、いきなりダンッと降りてきた感じですね。自分がずっと住んでいた団地と掛け合わせて、「アンチテーゼ」という言葉をもじった感じです。
──ご自身が生まれ育ち、表現を発信してきた団地という場所に、今改めて思いを至らせる部分もあったのでしょうか?
の子 それはないです。小学1年生から30年以上、団地に住んでいるわけで、僕にとってはただの日常なので。
──今日は「死」についての話が出ましたけど、「老病死」というのは表現の中で避けられがちなものだし、目を背けようとする人も多いと思うんです。でも、神聖かまってちゃんはそういうものを表現し続けていますよね。「アンチテーゼ」という言葉が『団地テーゼ』の奥に隠れているのだとしたら、神聖かまってちゃんは今、何に対してのアンチテーゼであると言えるでしょうか?
の子 「何に対してのアンチテーゼか?」と言うと……ずっとイライラはしていますよ。主語はデカいですけど、社会に対して、世界に対して、イライラしています。「死ねよ、バカ野郎!」みたいな。こういう気持ちって、誰しもあるんじゃないですか? 僕だけが特別なわけではないと思うんです。僕はたまに団地の周りを深夜徘徊するんですけど、ふとした瞬間にイライラしてくるんですよ。どれだけ清々しく散歩をしていても、急に立ち止まって「死ねよ、クソッ」みたいな……そういう瞬間って、みんなあるんじゃないかと思っています。表面上、うまく生きることができたり、社会性がついた自分ができあがったり、いくらでも仮面は被れますけど、人間、根本的な部分は変われない。僕は特にそういう部分が強くあると思うんです。おっしゃるように「死」の表現を避ける人もいるのかもしれないけど、芸術家として、死を避けるのは変な話だと思うんですよ。生があって、死があって、その両面があって人間ですから。汚い部分やドロドロした部分、人に見せられないような部分があるからこそ人間なんですよね。僕はそのすべてをゲロのように吐き出すのが芸術家だとずっと思っているし、それがスッキリする(笑)。
みさこ 誰にでもそういう瞬間があるから、かまってちゃんにはずっと若いお客さんがいるんですよ。新しくそれを必要とする人が生まれ続けているので、今では老若男女ライブに来てくれる状況になっていますね。自分自身で思っていても他の人は言わないことを、かまってちゃんが言っているからだと思うんですよね。
の子 かまってちゃんって昔からお客さんの世代が幅広くて、まさに老若男女という感じなんです。思春期的な毒が刺さるだけじゃなくて、自分らよりも上の世代の人がファンになってくれるというのは……絶望しているからじゃないですか?(笑)わからないですけどね。神聖かまってちゃんは負の表現だけじゃないですから。ちゃんと光と闇を表現していると思います。
──最後に改めて、の子さんにとって曲を作るとはどういうことと言えますか?
の子 究極のわがままです。それは曲作りだけではなく、生き様も含めてですね。