常田大希を語る前に確かめておくべき大事な話

常田大希を語る前に確かめておくべき大事な話
芸術には時間芸術と空間芸術があります。
音楽や映画、演劇、アニメ、あるいはゲームも芸術の範疇に入れるなら時間芸術になります。
絵画やイラストや建築、彫刻、写真などが空間芸術です。
つまりは時間の経過とともに起きる変化を表現するのが時間芸術で、ある瞬間における状態を表現するのが空間芸術です。
では詩や小説はどちらでしょうか。
時間芸術になります。

現代は圧倒的に時間芸術の時代です。
もちろん美術や建築、写真などの空間芸術も、それぞれの分野でアーティストたちは活躍していて、素晴らしい作品が常に誕生し続けています。
でも現代ではやはり、音楽や映画、演劇やアニメが圧倒的に人々の関心をとらえていて、文字通り私たちの「時間」の上に次々と展開されています。

昔は、時間芸術と空間芸術の消費のされ方は今ほどの差はありませんでした。
空間芸術は絵画や彫刻や建築、時間芸術は生演奏の音楽、舞踏、演劇、文学といった感じで、バリエーションにそれほどの差がなかったからです。
ところがテクノロジーの発達によって音声や映像の「記録」と「再生」が可能になり、そこから映画が生まれ、テレビも生まれ、音楽のレコーディングが行われ、MV、アニメやゲームが生まれ、というふうに時間芸術の分野が飛躍的なスピードで発達したのです。
その結果、世の中はすっかり時間芸術で溢れかえったのです。

では、原点に戻って少し考えてみましょう。
時間芸術の本質とは何でしょうか。

例えば2時間の映画、例えば3分間のポップソング。
それらが時間芸術と呼ばれるのは、その「2時間」や「3分間」を指してのことでしょうか。
そうではないと僕は思っています。
僕は、時間芸術の本質は一瞬を浮かび上がらせることにあると思っています。
その一瞬とは「今」です。
普通に暮らしていると意識せずに通り過ぎていく「時間」というものに対して、2時間の映画や3分間のポップソングは僕らを意識的にさせてくれます。
映画や音楽の力によって、私たちはその時間の中に流れていく無数の「今」を捉えることができるようになります。
それが時間芸術の本質です。
作品で時間を満たすのではなく、作品の力で時間をつかみ取る、それが時間芸術に接するということの本質です。

ちなみに空間芸術の本質とは「永遠」です。
絵画も、彫刻も、建築も、それらの作品は少しも動かず、時間を消費することはありません。
ということはつまり、それらはすべて永遠を表出しようとしているのです。
永遠という、究極の時間概念を夢見て作られるのです。
つまり、空間芸術とは究極の時間芸術を目指すもの、と言い換えることができるのです。


King Gnu、millennium paradeの常田大希が、ジャズ、クラシック、ロック、エレクトロ、そして再びジャズと、幼い頃から今に至るまであらゆるビートミュージックを聴き漁り、勉強し、プレイし、そしてそれらすべてのジャンルからプレイヤーを集めてグループをオーガナイズして今もなお懸命に音楽という時間芸術に命を賭けているのはなぜか。
ロックが好きでロックアーティストになりました、クラシックを学んだからクラシックの演奏家になりました、ジャズの才能があるからジャズプレイヤーになりました──それでももちろんなんの問題もないけれども、常田大希はそうではない。
視点を変え、ジャンルを行き来し、主観と客観を交差させながら、この時間芸術としての音楽を極めようとしている。
これまでの既存のジャンルではつかみ取れなかった時間を掴むための新たなアートを模索し、まだ誰も掴んでいない「今」を掴もうとしている。
King Gnuにおいてもmillennium paradeにおいてもPERIMETRONにおいても、常田大希のプロジェクトはすべて時間芸術の本質が核になっている。

(何かに)奪われた時間を奪回するための芸術。
アグレッシヴな表現行為。
彼らのポスターやグッズに記された「BE PUNK」の意味は、おそらくそういうことだ。(山崎洋一郎)


ロッキング・オン・ジャパン最新号「激刊!山崎」より

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