したがって、どんな形にせよ、音楽に関わることは――曲作りも、パフォーマンスも、曲を聴くのも、音楽について思いを巡らすのも――実際には、音楽という行為に参加するということなのだ。 (p13)
もし僕らが時間を限られた商品として捉えているために、次に何が起きるかと不安になるなら、では自分で自分を励まして、時間を「最も」有効に使おう、やる価値のあることをやろう。だが、音楽を聴くことは、やるだけの価値があることなのか? (p174)
ここで紹介する『レディオヘッド/キッドA』(マーヴィン・リン著、島田陽子訳、Pヴァイン刊)は、丸ごと一冊、レディオヘッドが2000年にリリースした代表作『キッドA』について論じた著書である。ひとりの著者が一枚のアルバムについて書くBloomsbury Publishingによる〈33 1/3〉シリーズの一作で、著者はアンダーグラウンド・ミュージックの批評を得意とするオンライン・メディア〈タイニー・ミックス・テープス〉の共同設立者であるマーヴィン・リン(〈ピッチフォーク〉にも編集などで関わっている)。海外では2010年に出版された本書だが、この度邦訳が発売されることとなった。このようなタイムラグが生じたのは偶然にせよ、本書を読むことで、00年―10年―18年という時の隔たりを経て『キッドA』というアルバムがどのように位置づけられてきたか確認できるのは興味深い。そして、おそらく多くの批評家やメディア、そしてリスナーにとって、レディオヘッドの『キッドA』は、バンドのディスコグラフィにおいて、あるいはその範疇を遥かに超えて金字塔であり続けている。それは発売から18年が過ぎたいまでも変わらない。なぜ『キッドA』はそれほど巨大な影響と歴史的意義を残した作品となり得たのか? 本書はまず、徹底的にそのことを考察する。
リンは本書の序盤で、発売当時大学生だった自身の体験も踏まえながら『キッドA』が当時のリスナーやメディアにとっていかに事件的なリリースであったかを回想する。その賛否を議論したのは批評家やメディアだけでなく、リスナーや同業者であるミュージシャンもまたそうだった。『OKコンピューター』を経て旧来的なメディアから「ロックの救世主」の役割を押しつけられたレディオヘッドが『キッドA』の制作においていかにそれ自体と闘ったか。そして発表されるや否や、強烈な議論――「これはいったい何なのか?」――を巻き起こしたこと。本書はそして、「キッドAの美学」、「キッドAと純潔度」、「キッドAと抽象性」、「キッドAの絶賛度」……といった風に章立て微分し、帰納的に『キッドA』と『キッドA』にまつわる事象について紐解いていく。
ここで興味深いのは、リンは当時のメディアがやったような「『キッドA』とは何なのか」という単純な位置づけ・定義づけを避けていることである。リンは、メディアは音楽作品を定義づけることで商品として売りやすいようにラベリングしているのであって、それは資本主義原理に基づくものだと指摘する。当時の多くのロック・メディアがやらかしたような「『キッドA』はロック・バンドがIDM/エレクトロニカを導入したアルバムで……」といった分析は、むしろ『キッドA』の無限の広がりを(資本主義からの要請によって)狭めることになったのだとリンは振り返るのである。
では本書はいったい何を言おうとしているのか。ここでリンはスリリングな飛躍を展開する。冒頭の引用によく表れているが、「我々はなぜ音楽を聴くのか?」という、巨大かつ根本的な問いに向かっていくのである。
とりわけ筆圧が高まるのが、『キッドA』リリース前後のレディオヘッドがナオミ・クライン(とくに著書『ブランドなんか、いらない』)らの影響を受け、反グローバリズム的な主張をし、そのことが少なからず『キッドA』という作品自体に表れていることを説明するくだりだ。リンは、なかばロマンティックな物言いでもって、音楽を聴くことをたんなる消費活動とは異なるものだとここで主張しようとする。そして、当時のレディオヘッドこそが音楽業界内部からの「抵抗」であったことを仄めかす。つまり、『キッドA』こそは旧来的な音楽産業の枠を内側から食い破るもので、資本主義とグローバリズムの肥大化がもたらした黙示録的なビジョンを掲げるとともに、わたしたちリスナーに「音楽を聴くこと」それ自体のさらなる自由を考えさせた作品だと示そうとしているのである。
そして『ブランドなんか、いらない』がエドに与えたように、レディオヘッドと業界の関わりは、彼らのファンに、もっと民主的な未来への「真の希望」を与えた。 (p131)
リンは最終的に、『キッドA』を論じることを通して音楽と時間の関わりについて形而上的な議論に移っていくのだが、その辺りはぜひ実際に読んで体験してほしいと思う。ここでは、わたしたち音楽リスナーが普段音楽を「消費」しているのとはまったく異なる次元で、「音楽を聴くこと」の可能性の探求が繰り広げられているからだ。そしてその媒介となったということで、『キッドA』という作品がいかに大きなものであったかをリンは証明しようとしているのである。
音楽を聴くこと、音楽を考えること。そうしてわたしたちは主体性をもって音楽に「参加している」。本書を読み、そして『キッドA』を再び聴いて出会い直すことで、わたしたちが音楽とともに生きていることを実感することができるだろう。(木津毅)
『レディオヘッド/キッドA』
マーヴィン・リン(著) 島田陽子(訳)
2019年1月9日発売
http://www.ele-king.net/books/006669/