人の声は、様々な言葉として形を成すよりも前、危険を知らせる手段であったりして、強く音楽的に響いたはずだ。歌はそのことを教えてくれる。
アンプやエフェクターを通して放たれるギター、打ち鳴らされる無数のパーカッション、幾重にも重ね合わされた電子音などの音響は、自然界の複雑で豊かな音響に近づいてゆく。ときにほとんど騒音じゃないかというギリギリのところで、音楽はそのことを教えてくれる。
音楽は、過酷な環境に命を預け、快適な環境を目指すためのツールだ。なぜ我々は、神様の気まぐれにヒヤヒヤしながら、わざわざ山の中に分け入って、バカでかい音を浴び続けているのだろうな。
きっと、環境にフィットすることを、命が喜ぶからだ。環境を侮って手痛いしっぺ返しを食らうと、命は怯える。
だから、優れた文明と、優れた音楽の存在は不可分だ。時代によって音楽の伝わり方が変わろうとも、音楽が失われることとは関係がない。
裸になって歌い、ケツを振りまくって踊ることに理由が必要なら、そんな話をしてみよう。ロックとかテクノとかレゲエとかアフロ・ジャズとか、そんなの関係ないんだ。目指すものは同じなんだ。
2日目のもっとも日差しがキツい時間帯、2時間に渡ってシェウン・クティのステージが繰り広げられているのは、たまたまじゃない。(小池宏和)