『翔んで埼玉』を埼玉在住・茨城出身の編集者が観た話

『翔んで埼玉』を埼玉在住・茨城出身の編集者が観た話
浦和のシネコンで観ましたが当然のように満席、そして笑いと共感の嵐、そして何とも言えない不思議な感動の余韻。
原作も含めて画期的な作品であり、そしてこの映画を全国各地の人が喜んで観ていることも画期的だと思いました。

たとえばヒーロー映画で言えば『ブラックパンサー』や『ワンダーウーマン』のように、黒人も女性も当たり前のように強く逞しくカッコいい主人公として描く素晴らしい映画が生まれたことを、知的な寛容性の拡がりとして喜ばしく語る人はたくさんいる。
ひとりひとりが違うことをみんなが認め合って、差別や迫害やいじめがなくなることを多くの人が願っている。
僕もそう思う。

しかし、それでいて『翔んで埼玉』が何もかもつまびらかにしてしまったように、自分がどこ出身で、どこに住んでいて、そこが東京都心とどういう距離感で、どういうイメージを持たれていて、誇れる名産品やデータがあるかないかに関してこだわらずにいられる人はほとんどいない。
東京か否か、埼玉と千葉どっちが上か、海があるかないか、もっと細かく大宮と浦和どっちが上か、自分の町が東京寄りと一緒にくくられるか離れてる方とくくられるか。
大きなテーマでは公正で寛容な世界を願っていたはずの人が、どこ出身でどこに住んでいるかというテーマになった瞬間、見下したり逆に卑下したり相手の弱みをあげつらって争ったり、小さな差別と迫害をはじめるのである。
自分は違うなどと言う気はありません。
僕も当然のようにこの手の話をするとそうなります。
そういうのと無縁なポジションに身を置けたらいいのだが、これは関東以外の地方にも、そして学歴とか持ってるガジェットのスペックの話にも置き換えられ、人はそう言うみみっちさから意外に逃れられていないものなのである。

『翔んで埼玉』が素晴らしいのは、そのみみっちい人間の性に対して嘘がなく、それを気持ち良く笑えるスケールの大きなディフォルメとローカル極まりない細かいネタで表現し、そしてちょっとだけその性を越えて自分と違うものを受け入れ、同時に自分の持っているものにも素直に誇りを持とうと思わせるところ。
尊大で他罰的な表現が少しでも混じると、途端にこの話は笑えなくなる。
原作者も、映画のクリエイターも、出演者もそんなこの物語のテーマに対して至って謙虚で、だからこそこんなにもこの映画は面白い。
そこに本当の知性を僕は感じる。
はなわの主題歌もとても気が利いていたのだが、最後にSZAの“All The Stars”が流れても成立しそうな映画でもあった。(古河晋)
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