2025年のポップシーンで、いま何が起きているのか? 編集長の山崎洋一郎、ライターのつやちゃん、木津毅、伏見瞬が今のポップシーンについて、それぞれの視点で徹底討論した座談会をお届けします。(rockin’on 2025年7月号掲載)
山崎 「それではまず、今年のポップシーンに対する雑感をひとりずつお願いします」
つやちゃん 「僕はまず2010年代後半で起きたふたつの大きなものが、今も続いて拡大してきていると思ってます。ひとつがジャンルシームレス。2010年代末に音楽が国境もジャンルも越え始めて、それがさらに広がって前提になったと。もうひとつがファンダムですね。SNSの浸透の影響もあると思うんですけど、どのポップアーティストもファンダムがベースになって、それが一個一個の大きな感情共同体を持つ時代になってきていると思います。そのなかで、エモいって言葉が流行していたこともあるように、感情がますます大事なものとして、ポップミュージックの中心に再配置されるようになってきている気がします。で、そうなると、どんどんボーカルパフォーマンスが中心に置かれるようになった気がしていて。それがポップミュージックど真ん中のアーティストだけじゃなく、周辺のR&Bとかメタルとかヒップホップとか、いろんなジャンルに広がった傾向があると思います。だから、歌がうまいだけではなく、どう感情の機微を表すかで差がつくような時代になってきている気がしますね」
伏見 「今の感情っていう話でいくと、2010年代ですごく象徴的なアーティストがテイラー・スウィフトとビリー・アイリッシュだと思っています。テイラー・スウィフトって感情をムーブさせるストーリーテリングと声によって大スターになっていきましたよね。で、オリヴィア・ロドリゴをはじめ影響力も凄まじいものがあった。で、ビリー・アイリッシュは一般的な歌のうまさを除いたうえで成功した、声の人だと思うんです。一般的なっていうのは、高声が出るとか、声量が多いとか、昔だったらマライア・キャリーとかセリーヌ・ディオンとか、歌がうまいディーバがすごく人気だったと思うんですけど。ビリー・アイリッシュは、むしろ声量も抑えるし、高い声でも歌わない。でも囁くような歌声に感情をムーブさせる歌唱力がある。今まで言われていなかった『声』っていうものに特化したことでスターになった人、と言えると思うんですよね。声と物語が、恐らくこの15年ですごく評価の対象になった感じはします」
木津 「フィメールポップミュージックは自分の恋愛沙汰とかをネタにしているじゃないかって軽視されてきた部分があると思うんですけど、テイラー・スウィフトがそれを変えた。自分にまつわるゴシップもある種のストーリーテリングによってアート的なものへと変えたことが、20世紀のロック的言説に対する批評として機能した部分があったと思いますね。あと、ジャンルミックスについては僕も同じことを思っていて、ジャンルが特定されないことによって、重視されるのが感情と、本人のキャラクターだと思うんです。2025年のポップミュージックはその一貫するキャラクターをどういうふうに表現するかみたいなところがあって。そこが今のポップミュージックの面白さであると同時に、すごくヒリヒリしたところだなって思っています」
つやちゃん 「今ふたつ出たボーカルの重要性と、本人のキャラクターって、結構ヒップホップそのものだなって思いました。ヒップホップはずっとそれをやってきているじゃないですか。ラップやフロウのバリエーションを競うっていう。ポップミュージックにおけるヒップホップの勢いは、最近落ち着いた感はありますけど、2010年代後半から試された、フロウのバリエーションや、どうキャラとして売っていくかみたいなものが、ここに来てポップミュージックのなかで再利用されている気がしています。そういう意味では、ヒップホップの勢いは衰えたかもしれないけど、今になってポップミュージック自体に、すごく影響を与えている気がしますね」
伏見 「僕もロック的な何かが、ある種ヒップホップに取って代わられたと思うんですよね。それは社会に対するアンチテーゼかもしれないけども、そのなかでキャラクターを切り売りする、ゴシップ性みたいなものの価値転換がヒップホップで起きて、そのあとに出てきたのが、今のポップだと思うんですよ。そう考えると雑談めいているけど、昔のロックでもオアシスぐらいまでの人たちはキャラ立ちしていたなって、パッと浮かびましたね(笑)」
木津 「それこそビートルズだってクラプトンだって、ゴシップ性を語られていましたよね。作品のなかにゴシップも入っていて、それは20世紀ロック的には、ロックの神話みたいな感じになっていたけど」
つやちゃん 「ただテイラーとか、ポップアーティストのツアーの経済効果がひとつの国の国家予算規模になってきているわけじゃないですか。っていうときに、そのストーリーと感情をひとりの人間が背負えるような規模を完全に超えているわけで。だからこそ、そこで疲弊したマインドをまた曲に還元して、ファンダムのなかで考察だったりが始まってっていうサイクルが、スピーディーに巨大化していますよね。その構造自体もそうだし、そこに立っているひとりのポップアーティスト自身が、かなり心配になってくる(笑)。ほんとに大丈夫なんだろうか?っていう」
山崎 「でも、個人の気持ちや出来事を切り売りしていって、それがポップミュージックとしてリアリティショー的に流通する。それによって個人が追い立てられ、追い込まれていく。それを『しんどそうだな』って見る時代が、もう終わったんじゃないかなって気がする。今の人は、それ、当たり前のことじゃん?って」
木津 「これがデフォルトだから」
山崎 「そうそう。だから今のポップスターは、リリースタイミングも早いし、どんどん新曲出すし。で、アルバム出すっていっても20何曲も入っているじゃないですか。その表現方法が完全にデフォルトになっているんじゃないかとは思うんですけどね。だから、実は今のアーティストは、自分のファンダムしか見ないぐらいの開き直りで、そこに常に発信していく。僕らが想像しているようなストレスとか追い込まれる感覚は、実はないんじゃないかな」
つやちゃん 「逆にそれを楽しめるぐらいのキャラクターが、ポップアーティストの条件かもしれないですね」
山崎 「そうですね。あとは、以前に比べて今のポップシーンってファンダムの世界じゃないですか。『ポップミュージックが好き!』って人はいなくて、それぞれのファンダムがあるっていう。ファンダムについてはどう考えていますか?」
伏見 「ファンダムというと批判されがちだし、画一的だと思われていますけど、最近自分がYouTubeをやっていて、そのなかにも多様性があるんだと気づきました。たとえば、チャペル・ローンのファンが必ずしもクィアなわけではなくて、年齢層だって、50代、60代の人が聴いていてもおかしくない。20代のクィアとか、フェミニズムと親和性の高い音楽を聴いているんじゃないかなってなんとなく思うんだけど、実はそうではないんじゃないかなって。ファンダムが画一的で、ファンとアーティストの関係性だけで終わっちゃうってよく言われていますけど、果たしてそんな簡単なものなんだろうか?とは思います。実際はファンダムとアーティストの関係も、各アーティストによって全然違う感じがするし、トキシックかどうかっていうのは、各アーティストによって異なっていると。アメリカがしんどいのは、多分そこに政治性というか、白黒つける性分がのってきてしまって、チャペル・ローンは『民主党なのか共和党なのか、どっちなんだ』ってことになるから、みたいな話だと思うんですけど。なんか重たい話になりそうだな(笑)」
木津 「話を聞いてて、伏見さんが去年のブラット・サマーをどう総括しているのかが気になります。ていうのも、ブラット・サマーはチャーリーxcxが『ブラット』っていう、ある種スタイルをぶち上げたんだけど、そのスタイルがなんなのかよくわからないところがポイントだと思っていて。ブラット・サマーってファンダムの、たとえばチャペル・ローンのファンならこういうものが好きだよねっていう、イメージが固まりかけていたものをかき乱すムーブメントだったんじゃないかなって思っているところがあるんですよ」
伏見 「『ブラット』が、まだ僕のなかで言説化できないんですけど、ブラット・サマーのムーブメントのなかには、ポップの今の状況を否定するわけではないんだけども、それを何か捻じ曲げるような力があった感じがしています。それがなんなのかっていうのは言えないんだけど、そこに対しては肯定的な気持ちになりましたね。今、ポピュリズムが広がりきったあとで、排他的なものも含んだ、どういうカルチャーを、どうやって作ればいいかっていうことの、ひとつのヒントになったのが『ブラット』だったのではないかと感じています」
山崎 「それはあのアルバムの何に感じたんですか?」
伏見 「音もそうだし、全体的な、打ち出していたコンセプト性ですかね。ジャケットにしても、『どの色がいちばん不快か』ってアンケートを取って、敢えてあの黄緑色を選んだんですよね。とはいえ曲はキャッチーだし、ジャケットもインパクトはあるんだけど、そのなかに不快さみたいなものを入れている。それは恐らく、サウンドもそうだし、ミュージックビデオやビジュアル面全体に言えると思っていて、たとえば“360”ではトレーニングマシーンの上で揺れているとか。“Guess”も、ビリーがブルドーザーで家に突っ込むとか。不快な暴力性を少しずつ入れている。だけど、全体的にはキャッチーでインパクトがある。
あと『ブラット』というかチャーリーxcxの大ヒットが特異だったのは、あまり物語がないですよね。『ブラット』に辿り着くまでの物語が、そんなに共有されているとは思えない。あるいは、複数の物語があると思うんですよね。たとえばハイパーポップの文脈で、あのアルバムを語ることもできるし。もうひとつはコロナ後のクラブミュージックの復活の喜びみたいなものを『ブラット』から受け取ることもできる。とはいえ、クラブミュージックみたいなロングセットとはまったく別の、ポップとしか言いようがない安っぽさみたいなものを受け取ることもできるし。そのあとでロードとチャーリーの不仲を回収する物語も派生したりとか、ひとつの物語に回収されない、複数のストーリーを用意するっていうのをチャーリーはやっていたと思います。キャラクター消費みたいなものに対する批評だったのかなっていう気がするんですよね。それが見事に成功していると思いました」
木津 「排他的なところと開かれたところが両立していて、だからこそファンダムの濃度が濃くなっていくようなところがあると思うんですよね。チャーリーの『ブラット』ってアルバムが、今のポップシーンそのものに対するある種の批評になっていたなって思いました」
伏見 「コーチェラでも、レディー・ガガが彼女にしかできないゴテゴテしたというか、とにかくすべての曲にお金をかけて、これを毎年やることは誰もできないみたいなものを実行しているなかで、チャーリーが何もないステージで踊りまくって、画面で文字をバッって出すだけ!みたいな簡素な、原始的な、金をかけないスタイルで勝負してきたのは、すごく象徴的だったと思います」
つやちゃん 「以前だったらインディからメジャーへっていう成長モデルがあったじゃないですか。今そのモデルが、自立的で内向きなインディシーンと、いかに巨大資本をかけてグローバルに仕掛けていくかっていうポップシーンとで完全に二極化していて。その行き来が難しくなったときに、インディの今の価値って、ポップシーンだったり、ポップアーティストだったりをどう批評していくかっていうところにあると思うんですよね。その関係性が強まっているし、今後肥大化していくであろうポップシーン、ポップアーティストに対して、どう批評的な視点を持てるかっていう。そこでインディの人たちは勝負していくでしょうし、その関係性はかなり重要になってくると思うんですよ。そう考えると『ブラット』って、すごく大きい規模のインディペンデントをやってるような見え方があって、特異な気がするんですよね。二極化したポップとインディを、インディの視点に立ちながらポップを、自分もポップなんだけどポップ全体を批評していくみたいな。それをとても大きい規模で、グローバルでやっていくっていう。そういう意味で他とは違うし、ブラット・サマーには可能性を感じますね。なんであんなに売れたか、わかってはいないんですけど(笑)」
山崎 「チャーリーのファンダムが、あんなに巨大なホームがあったわけではなくて。現象として起きたわけですよね?」
伏見 「そうですね。結果、チャーリーがめちゃくちゃ大スターになったのとは違う感覚があって、サブリナ・カーペンターのブレイクとはまた違う気がするし、やはり特殊性は感じますね」
山崎 「今の状況って、各アーティストのファンダムが蛸壺のように形成されて、とにかく推し活をする、っていうファンダムが並列するような状態で、そこには批評性が希薄になっていくんじゃないかって危惧があるんだけど。でも、結局ユーザーからすると、その蛸壺に入って出てこれなくなっているわけではないんですよね。今のこの情報の在り方を見てると、ある蛸壺に入りながら、他の蛸壺とも通じているみたいな。ひとつのアーティストの蛸壺に入りながら、あらゆる情報を取捨選択したりしていて。だから、排他性みたいな形での拒絶はないんだけど、どれを選ぶかっていう瞬時の判断で、ユーザー個々人はみんなそれなりの批評をやっていると思うんですよね。ただ、チャーリーは個々人の批評性に任せるんじゃなくって、アーティストとして表舞台でバーンと批評性を打ち出したってことですよね。だから、これからもそういう才能を持ったアーティストが、1年に1回なのか2年に1回なのか、ちゃんと出てきて、蛸壺的な状況のなかで批評性をバーンと発揮してくれることが起きますよ、きっと。通気口というか、換気みたいな感じで(笑)」
伏見 「そうなんですよね。しかも今は全体が見えちゃってるからそう感じるだけで、昔からファンダムの存在というのはそういうものだった気がします。でもかつては、情報も限られていたから、全体が見えていませんでしたけど」