U2のボノが6月18日付けのニューヨーク・タイムズ紙の意見投稿欄に記事を寄稿しているが、この記事のテーマは“ブラディ・サンデイ”に関連したものだった。
“ブラディ・サンディ”は72年の1月30日にイギリス領の北アイルランドのデリー市で起きた血の日曜日事件を歌った作品である。事件は、北アイルランドがイギリス領であるため差別的な扱いを受けていたカトリック系の住民が改善を求めてデモを行っていたところ、デモ隊と見物に来ていた通行人らがイギリス陸軍空挺部隊からの発砲に遭い、14名が死亡し、13名が負傷したというもの。その後、イギリス連合王国に与する住民とアイルランド共和国とともに自主独立するべきだという住民との対立が激しくなり、抵抗運動も過激化し、泥沼化していった。
「その日は北アイルランドのふたつの地域共同体、カトリック系の民族主義者とプロテスタント系の連合王国派との間の対立をまったく新しい次元へと陥れることになった。この日のことをよく憶えているアイルランド人なら、その後デリーの大司教となったエドワード・ダリー神父が血まみれの白いハンカチを頭上にかざしながら、負傷して瀕死の状態にあった被害者に勇敢に付き添っていた姿が心から消えていないはずだ」とボノは書いている。
そして、6月15日、イギリスの前ブレア政権の時に始められた事件の再調査の結果報告がまとまったのを受けてキャメロン首相はイギリス議会でイギリス陸軍の行動が違法なものだったと言及し、刑事事件としての捜査の可能性もあることを示唆した。
「38年間頭上をたちこめてきた暗雲がたちまちにして晴れた」とボノは書いている。「なったばかりのイギリスの首相、まだ、包装紙がついていそうな、ピッカピカのこの首相が誰もが想像しなかったようなことを実際に……口にしてしまったのだ……『わが国を代表して、わたしは深く謝罪いたします』と」。
ボノはこのキャメロン首相の謝罪は38年間にわたってずっとぱっくり口を開けていたままだった生傷を即時にも癒していくのに役立ったはずだと、そしてこうした率直さこそ、世界の各地の紛争地で最も響くものになるはずだと語っている。
「実際、どんな地域でも解決はすぐに見出すことはできるはずだ。このアイルランドの歴史の一コマからなにか学べる教訓があるとしたら……たとえば、バグダッドやカンダハルにとってなにかあるとしたら、それはこういうことになる。ものごととは悪い方向へとはたちまちにして変わっていくし、いい状況へと変わっていくにはとても時間がかかってしまうけれども、でも、しっかりいい方向へと変わっていくことはできるということだ」。
記事の最後でボノは“ブラディ・サンディ”を書いた頃のことについて「自分のような髪の毛をして怒りを持ったロック・ファンがいればサラエヴォだろうとテヘランだろうと、どこへ行ってもきっとこの歌は歌われるはずだ」と意気込んでいたことを回想する。この曲は「小さなことについて歌って大きな理想について触れようとしたけどうまくいかなかった曲だ」としながら、某レコード会社社長に言われたことも思い出す。「ブラディはやめろよ、ブラディは。ブラディなんてラジオで歌っちゃうとブラディ(さっぱり)うまくいかねえんだから」。もちろん、ボノは「ブラディ」をやめることはしなかった。