ブラックミュージックを独自の解釈で自身の音楽に取り込みながら、「イエローミュージック」を作り上げるという星野源の取り組み。そのブラックミュージックそのものが、そもそも時代とともに変化していくものであることを積極的に受け入れながら、「イエローミュージック」もまた進化していくことを強烈に感じさせるアルバムでもある。ジャズ、ファンク、ハウスなど、ブラックミュージックはリズムやビートが要の音楽である。ビートで「踊る」音楽という側面と、一方でゴスペルやソウルミュージックには歌を「聴かせる」、「言葉を伝える」という側面があって、ヒップホップはその両方が1曲の中で両軸として成立しているものというイメージもある。星野源は当然のように、ヒップホップのビートを敏感に自然に取り入れてきた。
そんな流れの中で、世界的に拡散していくネオ・ソウルの潮流をリアルタイムで感じたり、「誰かの」とか、「リスナーの」といったニーズに応えるのではなく、その少し先の未来が求めている、その時代に鳴るべきビートというものを意識し始めたのではないだろうか。遡ればディアンジェロの『Voodoo』(2000年)の革新性。“Playa Playa”での意図的なビートのズレ、違和感は「完全にはまる」のを良しとしない時代のビートだった。その不穏さ。「ポップ」が担うもののひとつに、そうした「時代性」があるということにも、星野源は早くから自覚的だったと思う。
あるいは、チャンス・ザ・ラッパーの現在進行形に進化するベース・ミュージックにのせた、ソウルフルでゴスペル的な「歌」の在り方。「歌」そのものはルーツミュージックを色濃く感じさせるものでありながら、トラックやビートはどこまでも先鋭的。こうした二面性は、「ウイルス」がその時代の環境に合わせて進化しながら増殖していく様子にも似る。
『POP VIRUS』にもその二面性の魅力がたっぷり詰め込まれていて、山下達郎がコーラスで参加した極上のドゥ・ワップ“Dead Leaf”、ベース・ミュージックをポップソングへと見事に昇華させた“サピエンス”、愛とエロスを表現するソウルバラード“Nothing”など、生楽器の豊かなアンサンブルにマシンのビートが、むしろ有機的なポップさを生み出していくように感じられるのも面白い。
ジャズ、R&B、モータウン、ファンク、ディスコ、ヒップホップ、そしてベース・ミュージック、ネオ・ソウルへと、時代を映しながら変化を重ねてきたビートのトレンド。しかしそこには変わらぬブラックミュージックの遺伝子が引き継がれている。それこそが世界中に拡散し続ける「ポップ」の「ウイルス」であるとも言える。『POP VIRUS』はそんな思いの込められたアルバムだと思う。純粋種より雑種のほうがより生命力が強いように、『YELLOW DANCER』を経て、貪欲にハイブリッドなサウンドを求めていくことで、今回、星野源が拡散しようとしているウイルスは、自身のキャリアの中で最強のものとなった。そしてこれからもまた変異、進化、強化していくことが約束されているかのような音。だからこそ、この作品を今楽しむのはもちろんのこと、10年後、20年後に聴き返すことが、すでに楽しみになるのだ。
星野は先日、マーク・ロンソンとダブルヘッドライナーでライブを行ったばかり。マーク・ロンソンはDJプレイで、ファンク、ハウス、ヒップホップなど、自身の楽曲とともに、マイケル・ジャクソンへのトリビュートソング、そしてエイミー・ワインハウスへとつなぎ、自身の代表曲とも言える“アップタウン・ファンク”へとつないだ。その後、星野のライブでのMCでは、『YELLOW DANCER』を制作している時に、この“アップタウン・ファンク”に勇気付けられたというようなことも話していたが、このふたりの音楽というものの捉え方における、親和性、共感性の高さをうかがわせるライブだった。
『POP VIRUS』は、というより今の星野源は、とてもナチュラルに「世界」を見ているのだと思う。音楽に、ポップに国境はなく、それこそ世界中の音楽に簡単に触れられる時代にあって、より多くの音楽がユニークに混じり合っていく──その時代を楽しむための音が『POP VIRUS』には詰まっている。(杉浦美恵)