エリカ・バドゥを観た
2010.04.17 00:18
ZEPP TOKYOのステージにブラック・コートと山高帽のエリカ・バドゥが立った。凄まじい存在感だった。あのクリップで見せたように、いつでも服を脱ぎ捨てて裸になっても誰も驚かない有無を言わせぬ説得力そのままだった。とはいえ、それは、ハリウッド仕様の万人に向けた歌唱力の見せびらかしや、特殊効果やライティングに紐付けられたドラマを駆使する大向こうな演出によって担保されたものでは無論、、まったくなかった。むしろそれは、ミニマルとすら呼べるものだった。どこまでも硬質なグルーヴは、エリカの指先の動きひとつを感じ取るバンドとコーラス隊、あるいはエリカ自身が操作するさまざまなエレクトリック・キット(テルミンまであった)などによって幾重にも差異化していく微妙なアンジュレーションによって信じられない領域まで変動し広がっていき、しかしながら、その硬さは、それが持つなまめかしい光沢によってどこまでもやわらかく会場を包み込んでいった。衣装チェンジはコートを脱ぐくらいしかなかったにもかかわらず、それはスライ・ストーンが激しくファッショナブルであるということと同じ意味で、ファッショナブルだった。
なにより言っておかなければならないのは、エリカ・バドゥが闘っているということだ。それはなにも、肌の色を背景としたおなじみの闘争のことだけではない。もちろん、その場所を起点としながらも、エリカが欲しているのは誰にでも必要とされる自由であり、そのための倫理であり、それを共有するための強固な愛であった。だから、彼女のグルーヴはどこまでも硬質なのである。そこにいたわれわれは決してブラック・ミュージックだけがとりわけ贅沢にもたらすことのできる音楽の愉悦に甘やかされることなどなかった。むしろ、それは、われわれを叱咤し、励まし、闘えと促しているようだった。しかし、そんな音楽こそが、なによりも豊かな愛であることも、今夜のエリカは伝えていた。