クリープハイプのアルバムを聴いていると、不意に曲がり角の影から声をかけてくる異色の歌が現れる。クリープハイプのライブを見ているとふと場面が転換して異端の歌が現れる。カオナシの歌はこれまでクリープハイプにとっての隙間の異世界だった。
そんな長谷川カオナシのオリジナルフルアルバムができあがった。隙間の異世界が集まったそれは名付けて『お面の向こうは伽藍堂』。まったくもっての長谷川カオナシワールドだ。
アンティークなポップスや昭和歌謡など非ロック系の楽曲がメインで、バンドアレンジも室内楽的。今の音楽シーンの中にあってはやはり異端の匂いに包まれた音世界になっている。そして歌詞は仮想的・寓話的なスートーリーの中に心の欠片を閉じ込めたような、カオナシ独特のリテラリーな作風。隙間がもはや隙間ではなくて、ひとつの仮想の街のような空間を形作っている。
この空間にカオナシはどんな思いを込めたのだろう?
インタビュー=山崎洋一郎 撮影=小財美香子
──長谷川さん独自の世界観がまとまった形で作品になることをファンは待っていたと思います。なぜこのタイミングだったんですか。アルバムを作るにあたってのテーマとして、童謡であるということと、どこか人生をゲームのように考えている人間が歌っているという2点がありました
2025年のクリープハイプのツアーが始まる段階では、ツアーが終わったあとの活動予定を決めていなかったんですね。その流れで、前からやりたいと言っていたソロについて、尾崎(世界観/Vo・G)さんから「やってみたら?」と言っていただいたので、「ぜひやりたいです」と改めてメンバーに打診して、ご快諾いただきました。
──これまでとはまたちょっと違う心持ちで曲作りをしたんでしょうか。
そうですね。私がクリープハイプではなく、長谷川カオナシとして音楽を鳴らすというのはどういうことなんだろう、と悩みながら録りました。クリープハイプに私の作った“しらす”という曲があるんですけど、あれは長谷川カオナシのソロっぽい曲だなと思っているんです。でも、それをクリープハイプで録音してライブもできた。つまり、私がエゴイスティックに長谷川カオナシを表現しても、クリープハイプでそれを表現することができるということなので、じゃあクリープハイプの時とソロの時の違いはなんなんだろうと、作り始めるまではわからなかったんです。結果的にその違いとしていちばん大きいのは、楽曲によっては、クリープハイプのメンバーが私しか入っていないところだと思います。メンバー以外に演奏やアレンジをお願いするところが大きく違うと思いました。そして、尾崎さんの監修の外で、私の判断で楽曲を作り、ディレクションし、プロデュースしたという。
──歌詞や曲を書く部分においては、違いを感じましたか?
歌詞を書くことに関しては、クリープハイプである時よりも制約が少ないように感じました。クリープハイプではアルバムにつき1曲書くので、その1曲の中で言いきる必要があるんですけれども、今作は12曲あるので、この曲はこういう役割を、別の曲には別の役割を、ということができたと思います。作曲に関しては、メンバー構成を考えずに楽曲を作ることができるのが大きかったと思います。ギター2本、ドラム、ベース、シーケンスもしくは自分のピアノという中でクリープハイプでは考えていきますけれども、そういう制約がなかったので。
──それによって、何が起きました?
作詞においては、同じ言葉を別の曲でも使うということをしました。クリープハイプの中ではなるべくしないようにしていることなんですけれども、アルバムを聴いた時に、この人はどういう人なんだろうというのが聴き手の中に残ったらいいなと思いまして。口癖があるとそれはより印象的になるのではないかと思いまして、それを多少意識して吹き込みました。たとえば《ゲーム》という言葉です。このアルバムを作るにあたってのテーマとして、童謡であるということと、どこか人生をゲームのように考えている人間が歌っているという2点がありました。それで、楽曲を超えても同じ《ゲーム》というセンテンスが出てきたりします。
──それで言うと、『お面の向こうは伽藍堂』というタイトル。これもまさに長谷川さんのインナーワールドを宣言するような言葉ですよね。「カオナシ」という名前も「お面」というワードも、人の外面的な記号性を表していると思うんですよ。その向こうにどんな中身があるのかっていうと、「伽藍堂」、つまり空っぽだと表明しているのかなと最初は思ったんです。でもアルバムを聴くと逆で、「伽藍堂的世界がある」ということなんだなと思ったんですよね。その伽藍堂的世界にはいろんな特色があって、まず音楽的なところでは、いわゆるロックのエナジーやロック的なビート感ではない、いろんなリズムやアンサンブルが集まってできている。
ジャンルに関してはあまり考えませんでした。自分の中で「この曲はロックがいい」と思ったらばそうしたと思いますが、たまたまそれが少なかったというだけだなあと思います。自分が歌うにあたって、エイトビートも好きなんですけれども、そうでない時の自分の歌のリズムの乗り方が好きなんです。そういう、ロックロックしてないものが得意なのだと思います。まあ、ロックも好きで弾くんですけれども。
──クリープハイプでベースを弾いてる時の長谷川さんは、ロックンロールベーシストでもあるわけじゃないですか。それとは違う表現者・長谷川カオナシを色濃く出したかったのかな。
そこもあまり意識しなかったかもしれないです。絶対にクリープハイプと違うことをやらねばならないとは思わなかったですし。出した曲を並べていった結果、というところに尽きるんですが、振り返ると、私はポップスをやりたかったんだと思います。ジャパニーズポップスや昭和歌謡なども好きで聴いてきたので、そういう要素は多く含まれていると思います。
──大昔の映画音楽で聞いたような、ジャズ的なアレンジやテイストも満載で。
でも、ルーツミュージックみたいなものを勉強して掘ったことはなくて。たぶん、ルーツミュージックを聴いて歌謡曲やJポップに昇華していった先人たちの音を聴いて、排出した結果、こうなったんだと思うんです。だから私の血の中にそういうものが含まれているんだと思います。
──でも、それをわざわざ今やりたいと思うってことは、そういうものの中に長谷川さんが喚起される何かが強くあるのかなと思うんですけど。
うーん…………社会的背景があって生まれたジャンルってあると思うんです。たとえば、大きな声で歌えないからささやき声で表現してみたら、それがいいじゃないかということでボサノバが生まれた、とか。そういう起源的なものには、とても魅力があると思っています。私は東京の端、東村山という土地に生まれて、周りは住宅街で大きな音は出せなかったので、ドラマーにはならなかった。そういう、その人がその場所に生まれたからこういう音楽になった、という理由に紐づいているものに惹かれるのだと思います。そこにはそれぞれのジャンルの始祖たちの願いやフラストレーションが詰まっているから、私が模倣しても味わいがあるものになるんだと思います。
──なるほど。長谷川さんの書く歌詞って、ものすごく躍動的でエネルギッシュなわけではなく、書き割りの登場人物たちが、書き割りの光景の中で物語を描いているような印象があって。そこには、東京生まれ・東京育ち独特の虚しさというか、見切ったような目線が強くあるのかもしれないですね。帰り道、記憶に残ったことを1行書き留めるんです。たとえば「今日の飲み会は人脈カードゲーム」とだけ書き留めて、そこから歌詞を膨らませていきます
人物があまり躍動的でないというのは大いにあると思います。上京してひとり暮らしをして、どうしても売れてやるぞっていうような20代でもなかったので、もしかしたらそういった面も歌詞に入っているかもしれません。もちろん実家を出て友だちとルームシェアをしながら売れないバンドをやっていた時期もあるんですけれども、その頃でも、地方から出てきた周りのインディーズバンドの志の高さはやっぱり違うなあと思っていました。
──そんな長谷川さん独自の感性が、新しいエモーションを生んでいる感じがする。その醒めた目線を自覚することってあります?
まあ、たとえば私が東村山に生まれ育ったという事実は変えられないので、ある程度受け入れています。そういう人生も肯定しているし、だからこそ言えることや出せる音があると思う。そのあたりは一貫してどこか醒めているのかもしれないです。
──こういう言及は嫌かもしれないけど、尾崎さんも東京生まれ・東京育ちじゃないですか。尾崎さんも醒めた目線や姿勢を持ってるんだけど、あの人はそれを1周させて、醒めた目線で物事を見切った上で、温かいものや熱いものみたいなものを演出するという表現者だと思うんですよね。長谷川さんの場合は、見切った視線を結構そのままストレートに出していて。その感触の違いが面白いなと思いましたけどね。
尾崎さんは東東京の方なので、もっとシティなんですけども。その地域性が関係あるかはわからないですが、尾崎さんは、憎たらしい相手のことも「自分がもし相手だったらどうだろう」って考えるんですよね。憎たらしい相手の立場になった自分を想像したうえで、それでも理解できない時に、初めて憎いって思う。そういう優しさがあって。だから、すごく尖った表現も使うけれども、根底が優しい人だなと思います。