アレクサンドル・コルパコフ 袋一平訳『宇宙の漂泊者』より
光速を超えた宇宙探検から地球へ帰還し、地球の時間からおくれた者たち「相対性人」が暮らす町。
この町がつまり「永遠市」であり、先日リリースされたamazarashiの最新アルバムのタイトルだ。
さらに秋田はライナーノーツにて、「以前は居場所がなく疎外感を感じていたこの地球に「居場所がないと歌う」という居場所が与えられた」、そして「相容れない思考と言葉をなんとか駆使し、この社会とコミュニケーションを図った。その過程がこのアルバムだ」とも明かしてる。
秋田ひろむにとっての音楽とは、この社会で生きてゆくための唯一の術であったと同時に、社会と自己を分断する鋭利な刃でもあった。社会とコミュニケーションを図るために歌い、歌った瞬間に社会から乖離していく自己。その距離感についてここ数年のamazarashiはより自覚的だったように思う。いや、amazarashiがamazarashiであった頃から秋田ひろむはその距離を俯瞰して過不足なく明確に測っていた。むしろ、我々リスナーがいつしかamazarashiと社会の狭間にある空隙に身を置くようになり、ほんのわずかなズレに敏感になったのかもしれない。
漫画『チ。- 地球の運動について -』とのコラボ曲“カシオピア係留所”やアニメ 『NieR:Automata Ver1.1a』のED“アンチノミー”もそうだが、今作にはSF小説から取った『永遠市』というタイトルやアートワークが示す通り、SFの世界観が色濃く滲んだ楽曲が並ぶ。もちろんamazarashiとSFはこれまでも踏襲されてきたひとつのキーワードでもあるが、《これは映画じゃなく生活》(“下を向いて歩こう”)という言葉をライナーノーツでも引用しているように、そして「永遠市」という概念が表すように、まるで映画のような、小説のような空想科学的な世界をただ一人、秋田ひろむは《生活》として歩んできたということだ。
《「どうせ僕なんか」が武器になった その方法は過去作にある》という強烈な一節からamazarashiという存在証明が深く立ち昇ってくる“下を向いて歩こう”、《どれだけ失って必死に叶えた夢だって 後ろめたければじわじわ突き刺さってゆくナイフと似ていた》と低温火傷しそうな肌ざわりの言葉が耳を刺すポエトリー“ごめんねオデッセイ”、秋田にとってポエトリーリーディングのルーツでもあるヒップホップの足跡がこれまでにないほどはっきりと残された“スワイプ”など、サウンドの変化や歌唱(言葉の置き方)の進化を如実に感じる1枚でもあり、近年の社会のありようを俯瞰していたamazarashiが再び暗闇から社会へと手を伸ばすための原点回帰的な1作でもある。
秋田ひろむが生み出す音楽に共振する者だけがたどり着ける『永遠市』は、確かな実感を伴ってそこに存在していて、我々の心を救うには十分すぎるほどの深さと広さを持っている。(橋本創)
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