澤田空海理(さわだそうり)は2023年12月に“遺書”でメジャーデビューを果たし、その歌の思いの深さは多くのリスナーの胸を打った。メジャーデビュー以前は、2017年に動画投稿サイトにあげた“またねがあれば”が共感を呼び、YouTubeやTikTokではカバー動画投稿も含めて大きな話題を集めていた。Sori Sawada名義での活動を経て2021年にはアーティスト名を本名である澤田空海理に改め、よりクリティカルな楽曲をリリースしていく。職業作家としても多くの提供曲を手がけていて、その卓越したソングライティングは今、多くのポップファンの注目を集めている。今回、メジャー2作目のシングルとなる“已己巳己”(いこみき)がリリースされたが、この楽曲は澤田の特異でディープな音楽センスを感じさせるもの。今回は、澤田空海理とは一体何者なのかというところも含め、その魅力をインタビューでひもといていきたい。
インタビュー=杉浦美恵
それまで自信がなかったぶん、人に肯定してもらえると反転して強みになっていくというのがあって「じゃあ自分で歌ってみようか」と
──新曲“已己巳己”、またすごい曲ができあがりました。その話もじっくり聞きたいのですが、その前にまず、「澤田空海理とは?」というところをひもといていきたいと思います。現在の活動の前にはボカロPとしての活動もあり、また、そもそもはオーストラリア留学時代にギターを手に取ったことが音楽活動を始めるきっかけだったという話ですが。「留学する前、日本では野球部に入っていて、オーストラリアに行ってからも野球をやっていたんですけど、向こうは部活全般にさほど熱が高くないんですよね。日本の部活は週6とか週7で練習がありましたが、向こうでは試合も含めて週3で活動するだけで、1週間のうちの4日が空いてしまって。当時は現在ほど怠惰ではなく、もっと情熱的な人間だったので(笑)、この4日がもったいないというので、そのときにギターを買いました。それと、幼稚園時代からの幼馴染たちがバンドをやっていたというのもあって、僕も音楽をやってみようと。それでいつの間にか作曲に夢中になっていたという感じです」
──バンドを組むという方向には向かわなかったんですか?
「やりたかったというのは正直あったんですけど、オーストラリアにいた当時は組もうという話にはならなくて。よくインタビューでも言うんですけど、僕は人前に出る資格を持ち合わせていないと思っていたというのもありました。歌がそんなに上手いわけじゃないし、容姿も含めてコンプレックスがあって、人前に出るという選択肢が最初からなかったというか。人前に出て表現するという意味では、バンドなんてその最たるものじゃないですか。なので少し避けていたのと、ある程度音楽を作れるようになってからは、自分ひとりでやるほうがラクだというのもあって」
──2012年頃からボーカロイドで音楽制作を始めて、2017年にはSori Sawadaと名義を定めて、自身の声で歌うようになったというのが大きな転機ですよね。その意識の変化はどのように訪れたんですか?
「自分は、ボーカロイド文化が好きだからそこに入ったということではないんですよね。もともとは人間の歌のほうが好きですし。となると、僕が今やっていることってなんなんだろうと考えるようになって。それで、古川本舗さんという方がいらっしゃって、古川さんもボーカロイドのフィールドにいた方なんですけど、生身の歌い手さんが歌っているアルバムを出していたんですね。そのやり方を見て、『あ、これ、やっていいんだ』と思って。僕は、それはボーカロイドの界隈では攻撃される対象だと思っていたんですよ。実際そういう声もあったと思うんですけど、古川さんのアルバムを聴いて、僕もこれをやってもいいよなっていうのがあって、2017年に『フラワーガール』というアルバムを出しました。で、今後その形でいこうということになっていたはずなんですよ。別に自分も歌いたいという欲があるわけじゃなかったし。でも、友人のミュージシャンに『声がいいんだから自分で歌えばいいのに』って言ってもらえて。そんなストレートに声を褒めてもらえたことはなかったし、それ以外にも、音楽と関係なく普通に友達としゃべっているときに、声に関して好意的な反応をもらえることがあって。それまで自信がなかったぶん、人に肯定してもらえると反転して強みになっていくというのがあって『じゃあ自分で歌ってみようか』と。アルバム『昼日中』からはもう自分で歌うようになっていきました」
“遺書”は間違いなく自分の心がこもっている楽曲です。その創作のあり方の是非はさておき、自分では傑作だと思える曲
──ボーカロイド作品と自身で歌う作品と、両立でやっている人も多い中、澤田さんはもうボカロ作品は作っていないですよね。「確実に好きな界隈ではあるんですけどね。いたときの心地よさとか、界隈のあたたかさとかも。周りにいるミュージシャンの友人は、ほとんどそのときの友達ばかりなので、すごくいいものを受け取ったというのはありつつ、自分が表現したいものはここにはないという自覚があって。なので、もう戻ることはないんだろうなと思っています」
──そして、2021年にリリースした“与太話”という曲がきっかけで、名義が本名である澤田空海理になりました。この“与太話”はとてもパーソナルな楽曲で、明確にひとりの人に向けて歌った曲でした。これを出すにつけ名義を本名にというのは、澤田さんの誠実さであると感じましたが。
「なかば自己満足ですけどね。“与太話”で書いた、その人が確実に替えの効かない人であるということ、そして、この曲が出るということも本人に伝えてあるという状況が揃ったときに、これをSori Sawadaのものだとは言えなかったんです。Sori Sawadaは澤田空海理ではない。確かにそれが助けだった部分もすごくありました。心ない言葉をもらおうが、やってることを非難されようが、それはSori Sawadaがやっていることであり、澤田空海理ではないと。でも“与太話”は徹頭徹尾、僕の言葉であり、僕の歌であり、僕の心。それを音楽にして表現するとなれば、これは攻撃の歌なので、耳にした本人は確実にくらうだろうと。そんな曲を歌うときにこちらだけ生身で攻撃を受けないSori Sawadaであるというのはフェアではない。そしてこれは澤田空海理から『あなた』へのメッセージであるという意味も含めて、名義を本名にしたという経緯です」
──ごくパーソナルな曲であるからこそ、アーティストネームに逃げたくないと。
「そう言っていただけるとすごくきれいなことのように聞こえますけど、でも、やっぱりエゴですよね。本名に変えたから誠実かと言ったら、そんなことは絶対になくて。やはり自己満足です」
──“与太話”を作ったことによって、その気持ちは2022年のアルバム『振り返って』にもつながっていきます。でもその作品は、「その人」に向けての思いに終止符を打つためのものだったと言っていましたよね。
「そうですね。自分でもこれをやっているうちは幸せになれない、どこにも行けないと思っていましたから。なので『振り返って』で一旦終わりにしようと思っていたんですけど」
──というタイミングでメジャーデビューの話があり、そこで創作に対しての思考がちょっと切り替わったのではないかとも思いますが。
「まあ、動いた部分もありながら、それでも、大きくは変わっていないです」
──昨年12月のデビューシングル“遺書”を聴いた限りではそうですよね。澤田空海理という名前で創作活動を行うということは、ひとりの人間として表現するものと、職業音楽家として表現するものの間で葛藤するし逡巡するということでもあると思います。その中で出たのが“遺書”だと思います。
「そうですね。“遺書”も、そのタイトルの付け方も含め、すべてそこで書かれた人に届ける手段でしかなかったというのは、他のインタビューでも言っていることなんですけど。どこまでいっても自分はその人のことしか考えていないし、その人はもういないから自分の人生が動かないんだと思っていたこともあり、“遺書”は間違いなく自分の心がこもっている楽曲です。その創作のあり方の是非はさておき、自分では傑作だと思える曲。でも、“遺書”の歌詞にもありますが、《書きたいことなどとっくに無くて、/足はとっくに止まってしまった。》という状態がずっと続いているんです。それがメジャーに行ったからといって変わるわけでもなく。ただ、書きたいことがなくても書いていい、というか、書かないとまわらないわけで──という状況を強制的に作ってもらえるのはありがたいことだなと感じています。楽曲に過度に意味を求めなくてもいいというか。今まではアルバムを出したあと、だいたい半年から1年くらい曲を書かない時期がありましたが、たとえば“遺書”を出したのでこのあと1年は休みます、っていうのは通らないですからね(笑)。作ろうねっていう環境を用意してもらっているのはありがたいことです」