ソランジュが突如リリースした『When I Get Home』。その陶酔感から立ち上るメッセージが深い!
2019.03.11 18:15
3月1日に突如として配信リリースされた、ソランジュのニューアルバム『When I Get Home』。2016年の前作『A Seat At The Table』が音楽性もメッセージも見事に時代に嵌った傑作だったので、今回もワクワクしながら聴いた。新作も、実に美しい作品だ。美しい作品だが、どこかフワフワと掴みどころがないように思えるというのが、当初の正直な感想でもあった。
この浮遊感というか、音楽の美しさと綯い交ぜになった陶酔感・酩酊感は何なのだろう。ジャジーな生演奏と、トラップ〜現代ビート・ミュージックのエレメントを融合させ、優しく柔らかな手応えのサウンドになっている点は前作と通じているのに、トータルな印象は異なっている。ここには、前作収録の“Weary”や“Cranes in the Sky”、“Don’t Touch My Hair (feat. Sampha)”、“F.U.B.U. (feat. The-Dream & BJ The Chicago Kid)”のような、明快なフックや物語が見つけにくいのである。
ソランジュ自身と、バンドのドラマーでもあるジョン・キー、そしてブラッド・オレンジのコラボレーターとしても知られアンビエントを得意とするジョン・キャロル・カービーがクレジットの中核を成したプロデューサー陣は、他にファレルやブラッド・オレンジことデヴ・ハインズ、パンダ・ベアといったビッグ・ネームも参加しているものの、およそコマーシャルでキャッチーな成果を狙った人選とは思えない。あたかも、美しい陶酔感こそが最も重要な事柄であるかのようだ。
アルバム終盤に配置された“Sound of Rain”〜“Not Screwed! (interlude)”〜“I’m A Witness”という流れに触れてふと思い出されたのが、サンダーキャットの2017年作『Drunk』と、そのリミックス・アルバムである『Drank』の強烈な陶酔感・酩酊感だ。『Drank』はテキサス・ヒップホップのレジェンドであるDJスクリューが編み出したミックス技法=チョップト&スクリュードを採用しており、もともとはビートのズレとテンポダウンによってパープル・ドランク(紫色の咳止めシロップを用いたトリップ飲料。『Drank』アートワークの紫色はそれを意味している)の効果を音楽的に表現するための技法だった。
サンダーキャットの近作群がソランジュを刺激したことも考えられるけれど、MVが公開された“Almeda”でソランジュが歌っているのは、まさにパープル・ドランクによる陶酔感・酩酊感であり、その中で彼女はブラック・カルチャーを賛美している。いかにもヒップホップらしい強いビートや重いベースサウンドとは距離を置いた斬新なサウンドによって、ソランジュは故郷テキサスで生まれたヒップホップサウンドを、そしてブラック・カルチャーをトリビュートしてみせたのである。
DJスクリューは、2000年にオーバードーズで他界した(パープル・ドランクに含まれるコデインが原因だったようだ)。当時ローティーンだったソランジュにとって、故郷のサウンドとカルチャーは音楽人生の原風景と呼ぶべきものだったろう。『When I Get Home』では、“Dreams”のように、まだ何者でもなかった少女の頃のソランジュが顔を覗かせる。決してハッピーな高揚感や明快なメッセージに満たされているとは言えない『When I Get Home』では、彼女が辿ってきた道のりを振り返ることで、そこに何かを見出そうとしたのではないか。
ソランジュは『A Seat at The Table』で、穏やかに、しかし凛とした表情で話し合いの席に着き、性や人種の差別、家族の問題などを議題に挙げた。人がそれぞれ個性に満ちているように、ある文化や慣例もまた、端から見れば「偏っている」ものだ。DJスクリューはカルチャーの中で命を落とした。ソランジュはどうしても、自身の育ったカルチャーを肯定したかったのだろう。カルチャーから得たものを、まったく新しい、そして美しいアートへと昇華させなければならなかったのだろう。『When I Get Home』はそういうアルバムだ。悩める人々に優しく真摯に寄り添う、傑作である。(小池宏和)