2011年のフジを振り返って
2011.08.01 12:45
やっぱり今年も未明の苗場から早朝に東京に着いて、洗濯をなんとなく始めてしまって、で、そのまま出社した宮嵜です。さすがに一瞬オチて、その一瞬が50分だったことに気がついたときはアセりましたが。
さて、今年のフジ。もちろん簡単に総括などはできないのは承知で乱暴に個人的な観点だけでいうと、今年は初日のアークティック・モンキーズと最終日のウィルコに尽きたなあと思いました。昨年がアトムズ・フォー・ピースだワン・デイ・アズ・ア・ライオンだと、まだくっきりと形作られていないこれからの音がそのまま放り出されたような年だったとすれば(その昨年の総括はこちら。http://ro69.jp/blog/miyazaki/38325 )、今年はそれとは反対に(?)、ロックの基本フォーミュラがいったいどれだけタフであるのか、その強さが試され、そして超克を見せた年だったと感じました。
片やアークティック・モンキーズはロックンロールが果たしてこの時代にどれだけ有効であるのか、実は多くの「自称ロックンロール・バンド」が避けて通っているこの命題に果敢にトライし、ブリティッシュ・バンドだけが持ちうる強靭な精神でそのテーマをバキバキと克服していく様を万来のグリーン・ステージに見せ付けました。実際、その姿はクールでありながら鬼神のごとき凄みすらありました。
片やウィルコはアメリカン・ロック・バンドがどのようなルーツを持ち、だからそれはどのような宿命を背負っていて、そしてそれはいかに今、提示され、次に繋げられていくものなのか、その壮大なストーリーを日曜日深夜のホワイト・ステージに示していました。カントリーに出自を持つウィルコが、まさに「現代においてもカントリーを演奏するということは、結果としてこのようなポスト・ロックに辿り着いてしまうのだ」という芳醇な物語を丁寧に演奏していく様子は、どこまで行間を読んでも尽きることのない豊かさに満ちていました。そして、それはやはりとても凄みのある姿だったのでした。
ともに見えてきたのは、彼らがこの現代に引用するロックの基本フォーミュラが、やはり今なおとてつもない可能性と未知の数式を内包している魔法の構造なのだということでした。これまでにさんざん歌を生み出してきたこの装置は、それでも、なお尽きることのない泉として、現代に何かを問いかける歌をあふれさせようとしているのだという事実は、それだけでわたしたちを鼓舞していたと思います。
毎回フジはなにがしかの刻印を刻んでくれます。今年はそんなふうに思った宮嵜でした。