2010年下半期私的ベストAL 第4位
2010.12.27 19:00
Arcade Fireの『The Suburbs』を選出。
今年の年間ベスト・アルバムを、Kanye Westと分け合っているArcade Fire『The Suburbs』。しかして、その作品がどれほど革新的、画期的だったかというと、そんなことはなかった。というか、その作品のたたずまいは、正直に言って「凡庸」ですらあった。しかし、この「凡庸」ということにこそ、このアルバムの凄さはある。
郊外を舞台に、そこに生きる少年少女たちの葛藤と、それが映し出す世界の光と影。それを、誰もがアクセスできる平易なロックンロールとして鳴らすこと。それが、『The Suburbs』である。その方法論は、まさしく凡庸だ。目新しい何かがあるわけではない。奇抜な転結が待っているわけではない。ロックが若者のために誕生したその瞬間から、延々と語り続けてきた「物語」である。
では、なぜ『The Suburbs』は、圧倒的に素晴らしかったのだろうか。それは、ごく単純にして、勇敢な理由によるものだ。つまり、彼らがその「物語」を(腹をくくって)信じたから、である。
ロック・ヒストリーがいつだって語り続けてきた、そのような「物語」。若者はこの世の中が嫌いで、でも、どうしようもなくて、敗れて、でも勝ちたくて、というか、世界そのものをどうにかしたくて、でも――という「物語」。ユース・カルチャーの勃興と並走して育まれたロックは、その出自において、「若者が毎日にフラストレーションを感じ、ベッドルームを抜け出して、外に出かけ、新世界を夢見る」物語なのだ。
そしてArcade Fireは、その「凡庸な物語」を、2010年の今、つまり、もっともそのような物語が退屈とされ捨てられ忘れ去られた最前線の今、その両手で握り締めたのである。
だから、その物語はもう一度語られなければならなかったのだし、その音はもう一度鳴らされなければならなかったのだ。「凡庸」であることを恐れず、いやむしろ、自らそこへと赴いたのである。
誰もが知っているように、かつて、そのような覚悟でロックを再度語り出したミュージシャンがいた。ブルース・スプリングスティーンである。スプリングスティーンは、凡庸なロックをもう一度誰よりもエネルギッシュに歌うことにした。そして、なんの変哲もないニュージャージーの話を歌うことにした。つまり、「郊外」の「凡庸な物語」を鳴らしたのである。そして、それは、誰もが知っているように、凄まじいまでの「大衆性」を獲得した。誰もがアクセスできる、ロックの大いなる力学が奪還されたのである。
Arcade Fireがやったことも、同じだと思う。彼らは、「インディー界の先鋭集団」であることではなく、「大衆的なロック・ミュージックの伝道師」であることを選んだ。腹をくくったのである(*蛇足だが、その意味でこのArcade Fireの「転換」は、これまでインディー・ミュージックを支えてきたマインドへの強烈な示唆を含んでいるようにも思える。というのは、R.E.M.以来、「アメリカの白人青年」たちは、アメリカ人でいることへの嫌悪を、カレッジ・ロック、あるいはインディー・ミュージックという名の下に鳴らしてきた。世界への反感は、そのようなフォーミュラを纏うことで継続されてきた。それは逆の見方からすれば、「アメリカの白人青年」の自信喪失ということでもあった。『The Suburbs』は、そうした「見失ったキッズたち」にもう一度勇気を取り戻させるものであり、そのために、Arcade Fireは、ある意味「非大衆的なインディー・シーン」と決別の舵を切ったのである。かつてアメリカが嫌でカナダへ移住した彼らからの、これは大きな決意表明なのである)。
しかしてその音は、信じた者だけが放つことのできるパワフルでダイナミックで、そして、「若者たちのための」ロック・ミュージックとなって結実したのである。次の世代である若者たちのため――。つまりそれは、かつてスプリングスティーンがそう呼ばれたのと同じ意味において、「ロックンロールの未来」なのである。