The White StripesとU2、両者のライブがわれわれにもたらすもの
2010.04.27 21:30
ザ・ホワイト・ストライプスの『アンダー・グレート・ホワイト・ノーザン・ライツ』に収録されているドキュメンタリーで、ひとつ面白かったエピソードは、ジャック・ホワイトがなぜ、独りでいろいろな楽器を演奏するにもかかわらず、それらをわざと遠くに配置しているか、だった。ステージ上でのジャックは、センターのマイク・スタンドから、メグ・ホワイトが座る下手のドラム・セット横のマイク・スタンド、そして反対側に置かれた上手の鍵盤類の間を、曲ごとどころか1曲の中で目まぐるしく動き回って演奏し、歌い、メグとカウントをとり、演奏し、歌う。素人目にも、もうちょっとそれぞれの配置を近くにしたほうがよかろうにと思うのだけど、ジャックがそのドキュメンタリーで言うには、間に合うか間に合わないか、そのギリギリの場所にそれぞれを置くことによって、ある種の緊張感を保っている、のだそうだ。
ストライプスのライブを観たことのある人なら、そのギリギリの緊張感というものがどれくらい高いレベルに設定されていたかを思い起こすことができるだろう。同タイトルの限定ボックスには、そのライブの映像版が入っていて、それを観ると、確かにジャックは、ほとんど不可能とも思える距離に楽器を置いて、ほとんど苦行のように動き回る。老婆心ながらそれでは演奏に支障をきたすのではないかと思うのだけど、しかし、観ているうちに、実はそうした過剰さ、あるいは不可能の超克こそが、ストライプスの演奏そのものであることをあらためて実感していくことになる。
そんなふうに、ストライプスにとって、過剰であることはとても重要なことだ。そして、その過剰さとは、身体的なものでなければ意味がない。なぜなら、その過剰さは、リアルでなければならないからだ。
U2の最新ライブも映像化されリリースされる。「クロウ」と呼ばれるバカでかい独自のステージをわざわざいちからクリエイトし、実際に作ってみて、それをワールド・ツアーのセットとしてあらゆる会場に搬入して建設して・・・と考えていくと、気の遠くなるような作業がそこにはある。セットについてはいろんなバンドやアーティストが趣向を凝らしたものを作ってはいるけれど、やはり次元が違うと言わざるをえない。お客を楽しませようとか、そういったレベルのコスト・パフォーマンスをはるかに超えている。というか、こういうものがなくても、U2のステージは成立するにもかかわらず、彼らは毎回、規格外の発想とスケールで、自分たちのステージを演出する。それは、やはり過剰である。
ザ・ホワイト・ストライプスの過剰と、U2の過剰は、果たして違うものだろうか。見た目にはまったく接点のないものに思える両者はしかし、少なくとも僕にはどちらも1本の線で繋がれた、片方が片方にとっての延長であるようなものとして見える。ボノにとっては、ジャック・ホワイトがわざわざ楽器を遠くに配置することと同じような意味において、あのステージ・セットが必要なのだ。ボノにとっての身体の表出は、あの巨大なツメであり、圧倒的なスクリーンなのである。そしてそれもまた、ひどくリアルなものなのだ。
それでは、両者をつなぐ過剰、あるいは身体といった「線」は結局何なのかと言えば、それがロックだとしか言い様がない。どちらも過剰という力学によって現実を揺さぶることであり、身体的であるということにおいて、リアルであり、それは必然的に「正しさ」を要求するということなのである。そして、その「正しさ」が、両者を観る者に共通してもたらされる、あの「鼓舞」なのだと思う。